齋藤慎爾『周五郎伝』を読んでいるのだが、この伝記は余計なところが多い。たとえば、吉本隆明と柄谷行人の対談が引用されているのだが、もちろん山本周五郎について語っているわけではなく、吉本の崇拝者である齋藤が、山本もこうではなかったかという論の中で引かれるのである。余計なところというのはこういうところである。吉本の崇拝者だというだけでどうかしているんじゃないかと思うが、全体に、躍り上がって興奮して書いているような感じがある。
たとえば関東大震災で山本は一時関西へ行くのだが、齋藤は山本とは関係ない、関東大震災の被害や大杉栄殺害、亀戸事件などを不必要に記述している。また、厨川白村が鎌倉で圧死したというのは間違いで、津波に呑まれて助け出されたのだが、肺に多量に水が入っていて二日後に死んだのである。
あるいは山本が山梨出身だということで、県民性論をやる。これも余計だし、山梨出身の作家を列挙するのも余計。しかも中沢新一が入っているが、これは作家ではない。また、山本の学歴に関する劣等感について述べるところで、巨匠と呼ばれる映画監督はほとんど小中学校卒だと言って列挙するがこれもげんなりする。今井正、家城巳代治、小林正樹、大島渚、山田洋次といった監督らは無視である。137p「高田万里子」とあるのは高田恵里子のことか。それに人の生没年を元号で書くのは分かりにくいからやめてほしい。
また138-9p、山本が大正十五年「山本周五郎方清水三十六」と書いて『文藝春秋』に投稿した原稿が、手違いで「山本周五郎」とされてそれが筆名になったという説について、齋藤は「老舗出版社の文書管理がそんなに杜撰か」として疑問を呈しているが、文藝春秋社は創立から三年目で「老舗」ではない。また他人の小説が川端康成名義で載ったこともある。
161p、『南総里見八犬伝』に行徳が出てくるかどうか知らないのだが、と書いてある。なぜ、『八犬伝』を読もうともせずこういう嫌な書き方をするのだろう。
あと山本が舟にロシナンテと名づけたところから『ドン・キホーテ』の話になっていくあたりも、無用の記述で、しかもドン・キホーテが「村娘ドルシネアを思い姫として」とある。それはアルドンサだろう。実際には『ドン・キホーテ』にアルドンサはほとんど出ては来ないのだが、『ラ・マンチャの男』とか観ていないのだろうか。
168pから十ページ近く、山本を論じているのか太宰治を論じているのか分からなくなる。ここも削除すべきである。179p、芥川の作品で山本が読んだものが並んでいる日記を引いて「鮭」とあるのに(「河童」?)としてあるが、誤記だとしたら「蛙」であろう。なんで「鮭」が「河童」になるのか理解に苦しむ。
189pでゴールズワージーの説明があるのだが、驚くべし、ノーベル賞をとったことが書いてない。その代わり、美智子皇后が『フォーサイト・サガ』で卒論を書いたことなどが出てくる。この人は皇室崇拝家なのか。このあたりも、山本を論じているんだか芥川や吉本隆明を論じているんだか分からない。それに山本が『フォーサイト・サガ』を原書で読んだのかと問うているが、山本は英文を通読できるほどできたのか。私は出来なかったと思うし、第一山本は『フォーサイト・サガ』に触れていない。
この本はまた世相の解説が多いのだが、それも何かの本から引き写したように見える。194pに「東京行進曲」などの歌謡曲が流行した、とあるのだが、これは山本が相いれなかったと書いている菊池寛の同名の小説の映画化の際の主題歌であるが、知らないのだろうか。