伊東に行くならハトヤ

こないだ、「おもちゃのチャチャチャ」は野坂昭如作詞だ、などと豆知識を披露したが、渡辺裕のサントリー学芸賞受賞作『聴衆の誕生』で、「伊東に行くならハトヤ、電話はヨイフロ」も野坂作詞だと知った。なお渡辺がサントリー学芸賞選考委員なのは、阪大文学部美学科に四年ほどいて、山崎正和先生の同僚だったからである(断っておくが私は文学部とは何の関係もなかった)。

田中貴子サントリー学芸賞受賞作は『あやかし考』なのだが、これはいかにも、落ち穂拾いの寄せ集めで、功労賞の意味あいが強く、これを代表作のように思われては本人も迷惑だろう。ただ、私は当初、題名から、お化けものかと思って読まなかった。私は怪獣は好きだが、お化けものにはどうも興味がない。しかし実はそうではなかったのだが、中に「淀殿拾遺」というエッセイがある。「これは一人の女人についての粗いスケッチである」とエピグラフがあるが、こういうことは「粗くない」時に謙遜して書くものだ。実際に粗いから困る。田中は、淀殿というのは「悪女」扱いされてきたが、それは本当かと問うており、いわば『〈悪女〉論』続編である。初出は1997、98年なので、むしろ2002年の文庫版『悪女伝説の秘密』に増補したほうが良かったのではないかと思うが、それはそれとして、粗いというのは、ここで淀を扱った現代小説をあげているが、井上靖『淀どの日記』(文藝春秋、一九七四)、南條範夫『わが恋せし淀君』(講談社、一九九六)とある。しかし前者は一九六一年、後者は一九五八年である。どうも田中が持っているものの刊行年を記したらしいが、そんなもの、何の意味があるのだ。あとのほうでも、司馬遼太郎『豊臣家の人々』(角川文庫、一九七一)とあるが、初刊は中央公論社、一九六七である。いくら近代文学専攻でないといっても、自分が持っている本の刊行年など記しても無意味であることくらい分かりそうなものだ。
次に、本来は「淀の方」「淀殿」だが、遊君のようだから徳川時代の戯作や講談で「淀君」と呼ばれ、悪く言われるようになったという。しかし、確かに「江口の君」とはいうが、遊君のようだから、というのは確たる証拠がない。傾城の女として、古代シナの妖婦になぞらえられているのは分かる。それと、当時の大河ドラマ「秀吉」で、松たか子が「意地の悪そうな淀殿を演じていた」とあるが、あれは「気が強そう」ではあっても、別に意地が悪そうではなかったし、「秀吉」は秀吉が死ぬところまでやらない「新史太閤記」方式だし、マゾの気がある男はああいう気の強そうな女が好きなのである。
それから、秀吉の朝鮮出兵で捕虜になった姜𦫿が著した『看羊記』に、淀が大野修理と密通して妊娠したと記されているらしい、実見できなかったので何ともいえないが、とある。どこで読んだのか知らないが、「らしい」と言うならその典拠を示してもらいたいし、これは『看羊録』が正しく、平凡社東洋文庫に翻訳が入っているし、『日本庶民生活史料集成』に読み下しが入っているのだから、実見できなかったなどと、まるで翻刻もされていないみたいに言われても困るのである。そこでは、家康の妾になるよう言われたが、大野修理の子を妊娠していたから断った、とある。それから山路愛山の『豊臣秀吉』に触れて、これは岩波文庫にも入っている、というのだが、これは岩波文庫で勝手に改題したもので、愛山が書いたのは『豊太閤』というのだ。
 いや、締め切りに追われて慌てて書いたなら、この程度のことは許すのだが、初出から七年もたって単行本に入れる段になってなおこのざまではちと困るのである。
 端的に言って、徳川時代、幕府の「敵」であった淀が悪く書かれ、家康に協力した高台院ねねがよく言われるのは当然であり、それは石田三成も同じことであって、「女だから」という田中の見当は外れている。ただし、大坂辺では淀君贔屓があったことは、『真田三代記』が大坂辺で流行していることからも分かる。
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 タイミングを逃して書けなかったのだが、こないだ毎日新聞の書評欄で松原隆一郎が『逝きし世の面影』を名著だと書いていた。もう少しまともな人かと思っていたが、しょせん西部先生の弟子か・・・。