斎藤幸平「人新世の「資本論」」アマゾンレビュー

「NAM」再びみたいな感じ
星1つ、2022・4・7
前半部分は分かりやすく、気候変動の危機(とその原因が資本主義であること)について語っている。中ごろへ来ると、マルクスの晩年の思考の考察になってくるが、著者の専門は哲学であって経済学ではないので、マルクスが偉いということを語りすぎていて、いや、私らにとってはマルクスが偉いか偉くないかより、今どうしたらいいかが重要なんですが、と感じる(このマルクス上げは最後まで続く)。あと「古代の奴隷は・・・大事にされた」(253p)とか、資本主義を呪うあまりの前近代美化がひどくて、英国が支配する前のインドのカースト制について、英国が悪化させたというならそれを説明してほしいし、前近代の身分制について何も言っていないし現代の身分制である君主制についても何も言っていない。あと、水と石炭について希少性があるから資本主義は石炭を、というところ(240-42pp)、水じゃ蒸気機関車は動かないだろうと思ったが、そういうところで説明がスポっスポっと抜けている(か、自説に都合よく記述を捻じ曲げている。質問されたら困るんじゃないか)。「ジェントリフィケーション」とかサラリと使っているが、この言葉の説明はなかったとか、後半は全体に暴走ぎみ。あとこの人は共同体主義者っぽいんだが、いや私はその共同体ってのが嫌なんだよね、何だか閉塞的で、というようなことは考えてくれなくて、もしかしたらこの人、東大准教授にもなったし、対他人能力が高いのでは? 資本主義というのは、対他人能力がなくてもやっていけるシステムなんだよね。それで、バルセロナとかの地域共同体の話をへて、最後の10ページくらいのところへ来て、国家は必要だ、とかいきなり言い出すから、それかい!と思ってしまうんで、それじゃソ連中共(それにしてはこの人、中共については何も言わない)と同じ、一党独裁下のコルホーズとかになるんじゃないかと思うんだが、くれぐれも暴力革命はやめてね。
あと過労死するような労働はやめて、というところで(267p)「スポーツをしたりハイキングや園芸をしたりギターを弾いたり厨房に立ったり」などとあるところは、19世紀の本から引用しましたね?という感じで、テレビを観たりユーチューブを観たりしちゃいけないんだろうか、と考えてしまったし、私はスポーツ嫌いだしハイキングとか園芸とかギターとか興味ないんだけど、そういう人の気持ちは考えない人だなと思った。

呉智英「バカに唾をかけろ」アマゾンレビュー

元左翼の坪内祐三擁護
星2つ、2022・3・20
 前に出た『衆愚社会日本』の続きで、『週刊ポスト』に連載されたもの。149-150ppに珍妙なことが書いてある。坪内祐三が死ぬ直前の文章で、悪いことが続くのは天皇霊が弱いからじゃないかと思っていたが、平成という元号が悪いんじゃないかというオカルト右翼なことを書いていて、呉智英が、天皇制は宗教的に考えるべきだとこれを肯定しているのだ。坪内とは親しかったみたいだが、だからといって。呉は前著とは違って本書では天皇制批判にも踏み込んでいるのだが、私らの間では天皇・皇族に人権がないことから天皇制を廃止すべきだということになっているのに、人権思想を批判する呉は、その議論に触れることさえなく、ただ元左翼根性から共産党の話ばかりしている。私には共産党なんてどうでもいいのだ。呉の理想は「哲人政治」だといい、堯舜の禅譲世襲への批判だと言うのだが、それなのに東アジアでは天皇も皇帝も世襲ばかりだったというのは、儒学が機能していなかったからじゃないか。私は人権思想は現在のところ優れた思想で、そこから問題が生じるにしてもその時々に考えればいいと思う。あと240pにべ平連の話が出てくるが、ベ平連ソ連から資金をもらっていたことをなんで書かないのか。「悪源太」の「悪」が強いという意味だというところで今東光の「悪太郎」を持ち出しているが、あれはホントの悪太郎ではないか。船越保武の「ダミアン神父像」を傑作だと言っているが、あれは文部省推薦的傑作でしかないんじゃないか。
 しかし参考になるところもなくはなかった。

音楽には物語がある(39)ただの歌詞じゃねえか(2)「中央公論」三月号

 『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』というのは、サザンオールスターズ桑田佳祐の著書の題名で、一九八四年に新潮文庫オリジナルで出たものだが、中身は自身の作った歌詞集である。なお「歌詩」であって「歌詞」ではないので、あいまいが入っていない検索だと出てこない。

 私の先輩にあたる沓掛良彦先生は、近世狂歌が好きで、数年前には、もはや小説は読まないことにしたと言うほどの「詩」好きで、枯骨山人という戯号をつけていたのだが、先日『塵芥集―一夜の詠 茂原才欠(もはらさいかく)短歌大矢数』(思潮社)というのを「小湖津完爾」の名で刊行し送ってきた。もう十五年くらい前だが、「日本ってのは不思議な国で、小説書いて出世するんだからなあ」と、詩の地位の低下を嘆いていたが、西洋でも十八世紀から小説の世紀になって次第に詩の地位は低下してきたし、逆に日本でも今なお藝術院あたりでは詩を書く人のほうが評価が高くなる傾向がある(富岡多恵子三木卓など作家でも詩人でもある人が選ばれやすい)。

 以前NHKで三年にわたって放送された司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」は、ドラマとしては私は評価しないが、エンディングの久石譲による曲が好きだった。だが、私が好きなのは第一部で流れた女声スキャットだけの歌詞のないものだったのだが、今ではYouTubeでは歌つきのものしかなくなっており、私は歌詞のないものを求めて白いジャケットの総集編CDを買ったのだがなく、NHKに問い合わせのメールを出したのだが返事もなく、この文章のゲラで初めて、青いジャケットの総集編に入っていることが分かり、世間の人はやっぱり「歌詞」が好きなんだなと思う。(もっともこのスキャットサラ・ブライトマンで、アマゾンレビューではこのスキャットが評価が高かったことは言い添えておく)。

 もちろん私にも、歌詞が気に入った歌というのはないことはない。「ボヘミアン・ラプソディー」とか、エルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」とか、富野由悠季井荻麟の名で作詞したアニメの挿入歌とか、いろいろある。だが私が嫌なのは、短い歌詞、あるいは「詩」に、「深み」とか、「人生の本質」などを見出してしまう世間一般の行動なのである。

 たとえば芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」に「人生は一行のボオドレエルにも如かない」というものがあるが、そんな馬鹿なことがあるはずがなく、私はこういうことを言うから芥川が嫌いなのである。こういうバカさは、インテリからバカにされ「便所の神様」などと言われる相田みつをみたいなものである。

 「一行のボオドレエル」に「深み」を見出してしまうのは反知性主義とも言うべきもので、十七世紀のヴィーコは、歴史や法も元来詩であるという立場からデカルトに反対したと把握されるが、それはデカルトが正しいのである。私は伝記をよく書くが、時おり「深みがない」という批判を一般読者から受ける。私は「深み」などないように書いているからで、伝記も歴史もひたすらな事実の集積であって、「深み」などというのは、短い言葉で人生を知った気になりたがる若者が求める浅薄な料簡に過ぎず、そう簡単にものごとは分かるものではなくて、歴史にせよ科学にせよつらくて長い勉強によってようやく見えてくるものなのだが、「詩」の好きな連中というのは、それを十四行くらいの詩で分かった気になりたがっている、その根性がいけないのである。

 『文學界』一月号に松浦寿輝が書いていたエッセイによると、ラジオに出た谷川俊太郎(九〇歳)が、女性アナウンサーから詩について訊かれて、「美辞麗句」「巧言令色」と答え続けたというが、これは実に詩をよく分かった人の言葉だと思った。