著書訂正

谷崎潤一郎伝」(文庫)

p、20「戦前、こんな実名をあげたら軍人誣告罪に問われてしまう」→

 

 

軍人誣告罪」などというものは存在しない。のち石坂洋次郎について気づき何度も注意喚起してきたのだが、自分が使ったのを訂正するのを忘れていた。

「異人たちとの夏」の私小説性

 

 

 

 

映画「異人たちとの夏」を久しぶりに観たがやはり面白かった。これはカナダから帰国した92年ころにビデオで観て、それから山田太一の原作も読んだはずだ。これが映画になっているのを知ったのは、『ぴあ ピープルズファイル』という、当時活躍中の文化人のカタログで、特殊メイクの原口智生がとりあげられており、そこに幽霊のような顔の女の写真がついて「映画「異人たちとの夏」でも原口の技術が・・・」とか書いてあったからなのだが、映画にはその幽霊女が出てこなかったから、おかしいなと思ったもので、別の映画のものだろう。

 「異人たちとの夏」は1987年の山田太一の小説で第一回山本周五郎賞受賞作だが、山田は当時53歳で、シナリオとしての代表作「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などはそれ以前のもので、このあとはさしたる作はなしていない。

 「異人たち」の主役は40歳になるテレビのシナリオ作家で、浅草出身、12歳で両親を亡くしたが、浅草をふらりと訪れて両親の亡霊に出会うという話で、「牡丹灯籠」を下敷きにしたマンションの女の亡霊も出て来る。

 山田太一も浅草出身で、両親を亡くしたとは思えないが、顔もいいし、女にももてたろうし、浮気や不倫もあったろうし、女が自殺未遂するくらいのことはあったろうと考えると、この幽霊話も割と私小説風味が強いんじゃないかと思った。映画では永島敏行が演じていた後輩のシナリオ作家が、この映画のシナリオを書いた市川森一なんじゃないかという気さえする。

 その市川も、監督の大林宣彦も鬼籍に入った。私はどういうわけか大林宣彦が撮ると幽霊話でも認めてしまう。

手塚治虫とサントリー学芸賞

 

 

 

2006年に竹内一郎さいふうめい)が『手塚治虫ーストーリーマンガの起源』でサントリー学芸賞を受賞した時、何人かのマンガ研究者が激しく攻撃した。宮本大人夏目房之介藤本由香里らで、「マンガ学会」の人たちであった。しかし、攻撃は激しいものの、具体的にどこがどういけないのか、奇妙に不明瞭な、そのくせやたらボルテージだけが高い攻撃だった。

 これは要するに「わたしらのショバによそものが入って来た」という理由での騒動で、彼等は前年に出た伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』をさしおいて何でこの程度のものが、と言いたかっただけである。しかし『テヅカ・イズ・デッド』は、ニューアカ的、ポモ的に読むのが難儀で、サントリー学芸賞はこういう表現を嫌うから、まあとれなかったろうなと思う。

 私はサントリー学芸賞の裏面はわりあい知っているが、まあ非公募の賞というのは裏がたくさんあるもので、ほかにも、なんでこれが受賞?というのはたくさんあって、特に竹内のものが突出して変だったわけではない。

 初期のマンガ学会というのは、学者でない人が中心にいたのと、漫画論というのは素人でもすぐに手を出す雰囲気があったため、地位を確立しようとしてやたら高飛車で、「『新宝島』で手塚が初めてクローズアップを使った」というのは神話だとか、『鳥獣戯画』が漫画の始祖だなどといまだに言う人がいて、とかやたら攻撃的な物言いをしていた。京都精華大学マンガ学部ができて、漫画家が教授になり、竹宮惠子なんか学長にまでなったのも、マンガ学会と連携していた感じはある。だからまあ今回の萩尾望都と竹宮の騒動についても、この人らは何も言えないわけ。

 マンガ学会でまともに普通に研究をしているのは、森田直子のテプフェールとか、もともと研究者で博士号もある人ということになった気がする。

 

「男たちの旅路」と「宇宙戦艦ヤマト」

男たちの旅路」のスペシャル「戦場は遥かになりて」(1982年2月)は、ヤクザもんとの戦いで死んでしまった若い警備士の婚約者の妊娠している真行寺君枝鶴田浩二が若者の郷里の小笠原まで連れて行って父(ハナ肇)と反戦思想を語りあうもので、「かっこよくあろうとするな」とか言っている鶴田浩二が、結局はかっこいい活躍をしてしまうドラマである。

 今発売されているDVDでは分からないが、最初放送された時、オープニングには「宇宙戦艦ヤマト」の動画が挟み込まれていて、多分無断でやったんじゃないかと思うが、要するにヤマトを軍国主義の復活として批判する意図があったわけで、それは山田太一も知っていたんじゃないかなあ。

 

 

 

わかりやすすぎるピカソ

 

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 ピカソの絵について「わからない」ということから書き始めている新書を見たが、ピカソの前衛的な絵は、むしろ分かりやすい。「あー、めちゃくちゃなように見えてこれで××を表現してるのね」ということがわりあい分かってしまう。

 音楽でいえば、ストラヴンスキーやプロコフィエフに近く、シェーンベルクヴェーベルンとは違う。文学でいえばカフカの「変身」や梶井の「檸檬」で、「ユリシーズ」や「V」ではないのがピカソであろう。あまりに分かりやすすぎて、次の時代には「通俗前衛絵画」扱いされているんじゃないかと思ってしまいそうだ。

「殺陣師段平(たてしだんぺい)」の謎

 「殺陣師段平」といえば、私にはある種の伝説としてのみ存在した新国劇狂言である。大正年間、澤田正二郎が旗揚げした新国劇の殺陣師だった大阪の市川段平は、市川右団次門下にあって中村鴈治郎(初代)とわたりあったというのが自慢である。1982年に市川森一が書いた名作ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」は、大衆演劇の世界を背景にしたものだが、その最終回で原保美が「殺陣師段平を気取って言えば、こいつが写実、リアリズムってもんじゃないですかね」と言っているし、段平といえば「できました、こいつが写実、リアリズムの殺陣でござんす」とかいうセリフのある芝居だと思っていた。
 初演は1949年3月9日の有楽座、沢正は辰巳柳太郎、段平を島田正吾でやったというが、その後、1950年に黒澤明の脚本でマキノ雅弘が映画化しており、この時は段平を月形龍之介、沢正を市川右太衛門が演じ、1955年には「人生とんぼ返り」の題でマキノが再映画化し、段平を森繁久彌、沢正を河津清三郎が、さらに1962年には「殺陣師段平」の題で瑞穂春海監督による三度目の映画化があるがこれも黒澤明脚本で、段平は二代目中村鴈治郎、沢正を市川雷蔵が演じている。段平のモデルは、島田の師匠の市川升六だという。
 だがこれらはかなり複雑な様相を呈している。原作は何度も直木賞の候補になった長谷川幸延の台本だというが、これは現存していない(藤井康生がそう書いている)。黒沢のシナリオは「全集黒澤明 第三巻」にちゃんと入っているのだが、これは明らかに1962年版のシナリオではあるが、1950年版とはかなり違う。
 このへんのことは藤井康生(やすなり)・大阪市立大学名誉教授が『上方芸能』に連載したものをまとめた『幻影の「昭和芸能」  舞台と映画の競演』(森話社、2013)に詳しく書いてあるのだが、それでも、1950年版映画の結末がよく分からない。
 そもそも話は、大正六年(1955年映画による)に沢正が「国定忠治」をやろうとして、歌舞伎の様式的な立ち回りとは違うリアリズムの立ち回りをやろうとするところから始まる。そこへ段平が、それならわいが殺陣をつけます、と出て来るが、沢正は、君のは歌舞伎の立ち回りで、自分がやろうとしているのはリアリズムだ、と言う。1955年映画の森繁はここが愚劇になっていて、「リアリジュウってのは何だす、どこに売ってるんだす、わて、女房子供をたたき売っても買ってきます」とか言う。
 そのあと「英語で言ったのが悪かった。写実ということだ」「写実って何だす」と言うが、ここで澤田は「先生」と呼ばれていて、それは早稲田大学を出たからなのだが、ここでは大学出の沢正と目に一丁字もない段平の対比がしちくどい。段平は明治の生まれで、それで歌舞伎の世界にいたなら、「写実」が分からないはずはないし、歴史的事実からいっても、リアルな立ち回りというのはすでに新派ー壮士芝居でやっていたことで、大正六年にもなってこんな議論をしているはずはないのだ。森繁はそのあとも「リアリジュウ」とか言い続けていて、何だかバカにされているような気がする。
 しかしそこから、段平が奮起してリアリズムの殺陣を編み出し「これがリアリズムの殺陣でおます」と言うのかと思っていたら、それは単なる都市伝説的なセリフで、あっさりとリアリズムの殺陣はそのあと小松原の場で実現され、話は新国劇の東京の明治座進出、段平をささえる恋女房が病気で死ぬ話などへ移っていく。50年映画でも55年映画でもこれを演じたのが山田五十鈴である。だがこの恋女房お春も肺の病で死んでしまい、実は娘なのだが名乗っていないおきくが前面に出て来て、62年映画では高田美和が演じるが、50年映画の月丘千秋と、55年映画の左幸子が重要な役どころになる。時代は昭和に変わっている。
 50年映画では、京都の南座で沢正が忠次の召し捕りを演じている。史実の通り、この時忠次は中風だった。やはり中風の段平は病床にあり、娘とほか二人に「御用だ」と言う捕り手を演じさせ、蒲団の中で段平は刀を抜く立ち回りをしようとするができない。そこからが分からなくなって、南座へ突然娘のおきくがやってきて、幕間に花道を駆けていき、舞台で寝ている沢正に、段平の殺陣を見てくれと言うが、沢正は、「段平が来なければしょうがないじゃないか」と言っていったんは追い返すが、がばと跳ね起きて、おきくを呼び戻し、下りた幕から観客に、今しばらくお待ちくださいと言い、おきくに殺陣をつけさせる。おきくは、「忠次は刀を抜こうとします」などと説明するのだが、そのあと場面が切り替わって幕が開き、捕り手が「御用だ」と言って病床の忠次を取り囲み、忠次は刀を抜こうとするが抜けない。すると捕り手の頭らしいのが進み出て「神妙にお縄につけ」と言って終わるのだ。
 私は唖然として、これでは何の殺陣もつけていないではないかと思った。62年版を見てみると、死にかけた段平が南座の三階までやってきて、病床で何か言って殺陣をつけようとするが死んでしまい、娘の高田美和が、娘であることを沢正から告げられるのだが、こちらのほうがよほどすっきりしている。
 しかし、1955年版の映画を観ると、まず南座で沢正が忠次の立ち回りをやり、中風ながら立って戦おうとするがうまくできず捕縛され、それを三階席から観ていた段平が「あれではいかん」という顔をし、病床でやはり娘と二人相手に殺陣をつけて死んでしまい、娘が南座へ駆けつけて沢正に教え、沢正の忠次は身動きもできず床の中で苦悶したままお縄になる。つまり中風で刀を抜くこともできないというのが究極のリアリズムだというのが、この芝居の主意だったわけである。おそらく長谷川幸延の台本はこの、中風で動けない忠次を描いたものだったのかもしれない。黒澤は、それでは理に落ちすぎ、映画として観客が納得しないだろうと考えて別の結末をつけたのだろうと私は考えた。
 なお1949年初演の際の3月26日読売の安藤鶴夫劇評では「懐古趣味の凡打」と批評している。あるいは「殺陣師段平」は、時代劇風の背景なのに「リアリズム」とか言っているところが「可笑しい」というので「笑」こみで伝えられてきた芝居なのかもしれない。新国劇はつぶれてしまったが、当時お笑い芸人が国定忠治の恰好で「赤字の山も今宵限り」とやっても、観客はすでに新国劇の窮状も関心がないので誰も笑わないという悲喜劇の中にあった。

(付記)『映画新報』1950年9月の滝沢一「殺陣師段平」は、黒澤の脚本を上々とはいえないと言いつつ、結末については何も書いていなかった。同時期『キネマ旬報』の映画評では上野一郎が書いているが、こちらも同じく。上野は少し前に雑誌に載った脚本を読んだと書いているが、それはどこにあるんだろう。 
 

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「人生とんぼ返り」忠次捕縛

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「人生とんぼ返り」断末魔の段平