節子の恋(1)島崎藤村「新生」リミックス

 廊下がぎしりと鳴った。
 (叔父さん)
 と、節子は思った。
 果たして、叔父の岸本が障子を開けた。
 「何だか寂しくってね」
 岸本は座って、新生に火をつけた。節子は煙草盆を持ってきた。
 本格的に秋になってきていた。岸本は二年前に妻を失ってやもめ暮らしだった。その前に三人の女児を病気で失い、男の子三人が残った。うち一人をよそに預け、二人だけ手元で育てている。
節子は、その岸本の兄の娘で、手伝いに来ている。前には姉もいたが、嫁入りのため去った。節子の父・義雄は、祖母と母と弟とともに名古屋におり、父や叔父の兄に当たる長兄の伯父は台湾にいた。
 岸本の一家は馬籠の出身だが、義雄は隣の妻籠の伯父の娘と結婚して婿入りしていた。
 「奥さまが……」
 亡くなってから、と言おうとして、やめにした。節子はちょうど二十歳になる。
 「そうだな」
 岸本は新生を灰皿に置いて、言った。
 「妻がいないのにも、慣れるだろうと思ったが、分からないね。慣れたような気もするが、慣れないようでもある」
 まだ四十前の叔父様には、性的な飢えがあるのだろう、と節子は思った。それは、いま夜十時近く、叔父の前にいる若い女として、感じるものがないではない。
 叔父は、文士である。文士というのは、放蕩をするものらしい。しかし節子は、叔父が放蕩をしてきた形跡を知らない。若い日、「恋愛は人生の秘ヤクなり」と説いた北村透谷と親しかった叔父には、放蕩よりも、素人の娘さんとの恋愛、娘さんに寄せる恋が多かった。若いころの詩集『若菜集』には、そういう清新な恋の詩が収められていて、女学校でも心酔している子がおり、節子が姪だと知ると、紹介を頼まれたりしたものだ。
 「秋の夜長……というのは、寂しいからだな」
 叔父様が言って、節子は、
 「冬は寂しくないのでしょうか」
 と訊くと、
 「冬はな・・・厳しいほうだな」
 と言って、叔父様は笑った。
 「まあ、俺には節子がいて助かったよ」
 と言うから、節子は胸がきゅっとなった。
 節子がここへ手伝いに来たのも、叔父へのあこがれがあった。面長の、男性的な顔だち、切れ長の目、黒々とした口ひげは、一家の風格を備えていた。
 叔父は、夜半になるとたびたび、この節子に与えられた部屋へやってきて、よしなしごとを話していった。
 仕事の興が乗ったのか、叔父が来ない日もあった。そんな時は節子のほうで、おやすみなさいませ、と挨拶に行ったが、叔父はわき目もふらず、「ああ、お疲れさま」と言うのだった。
 叔父を非難する声も耳にした。芸妓や娼妓を相手にしていれば後腐れがないのに、素人の女に戯れるのがいけないのだ、という。実際叔父は若いころ明治学院で女子生徒と過ちを犯して仙台へ追いやられたこともあった。
 木枯らしが吹いている中でも、泉太と繁という男の子たちはよく走った。
 「男の子は走りますねえ」
 節子が言うと、岸本は、
 「犬と同じだ。男の子は犬みたようなものだ」
 と言った。
 「犬はフランス語で何といいますの」
 岸本は、英語はよくできた。フランスやロシヤの小説も英訳で読んでいた。ジョージ・エリオットという、女性作家の話もしてくれた。女だがジョージとしたのは、当時は女が小説を書くと好奇の目で見られたりしたからだが、実際にはみな女だと知っていたんだからおかしいねえ、と言った。そして最近はフランス語の勉強をしていた。
 「犬はシエン」
 岸本は言った。節子は、
 「姪は何といいます?」
 と訊いた。
 「姪はニイス、英語と同じだね」
 「あら・・・・・」
 「英語ができれば、フランス語の単語を覚えるのはやさしい」
 岸本は言った。それから、
 「モネマブル・ニース」
 と言い、
 「女だから『マ』のはずなんだが、次の形容詞が母音で始まる時は『モン』を使う」
 と注釈した。「モネマブル」がどういう意味なのか、節子には分からなかった。
 ある立冬に近い晩のことだった。叔父はやはり節子の部屋へ来ていた。叔父は、黙ってふと節子の左手をとった。
節子が岸本の顔を見ると、静かで真剣なまなざしが見え、節子は右手も出して岸本の手を両手で包んだ。
 二人が結ばれたのは、その夜のことであった。
 のちに節子は、岸本が「嵐」という小説を発表したのを見て、この時のことが書かれたのかと思ったが、読んでみたら違っていた。それほどにこのあとの日々は、節子にとっては「嵐」だった。
 三回目の時だった。岸本に抱かれながら節子は、
 「叔父さま、大好き」
 と言った。岸本の体がびくりとした。節子は、
 「叔父さまのお嫁さんになるわ」
 と、ひるまずに言った。
 岸本が留守にしている僅かな間も、節子は岸本を求めた。庭に欅の大木があり、これに触れるとそれが岸本の匂いを発しているような気がして、節子は大木を抱きしめようとした。結局は木にしがみついた蝉のような恰好になり、子供らが近づいて来たのであわてて離れた。
 節子は、自分の容貌に自信がなかった。岸本の死んだ妻のような美人ではないし、姉に比べてさえ劣る、ひらべったいヒラメ顔だと思った。
 当初の岸本の抱擁は、節子が処女だったこともあって、丁寧なものだった。節子は、血のついた布団が子供の眼に触れないよう注意して洗った。恐怖もあったが嬉しさも同じくらいあった。
 ことが済んで、叔父様は「過ちを」と言い、「すまない」と言ったから、節子は、
 「過ちではありません、私は叔父様が好きでした」
 と慌てて言った。岸本は、狼狽したように「新生」を探り出し、マッチで火を点けた。
 叔父が、愛情にわたる言葉を言ったか、といえば、節子は聞いてはいない。『若菜集』の詩人といえど、関係ができてからそんな言葉を口にするのは、難しかったのだろう、と節子は考えた。
 「産児制限」をしなかったわけではなかった。叔父様は神田辺で、ドイツ製の避妊具を買っていらしたのだ。けれど、それを着けようとすると何だか変な具合になって、二人とも気分がおかしな風になってしまい、何とか着けても節子のほうで気持ちが悪く、結局なしにしてしまったのは、信州から出た日本人の野蛮さの一種なのだろうか。
 叔父と姪の恋という、世間から許されようのない行いに、叔父様も苦悩されたであろうが、節子も苦しまないではなかった。
月のものが遅れている、と思ったが、そのうち来るだろうと思っていた。だが、それは一か月を過ぎても来なかった。
 ある夕方、節子は、叔父に、母親になった、と告げた。岸本の顔色が変わった。けれど、それをどうしろとも、岸本は言わなかった。小栗風葉の『青春』という小説で、女を妊娠中絶させた罪で牢屋に入る関欽哉という男がいる。そういうけばけばしい小説の流行に終止符を打ったのが、叔父だった。

 年が明けて、岸本は年始に行ったりし始めた。もう、節子の部屋へは来なくなっていた。節子の父にはさらに長兄があり、節子は学校へ行くのに世話になった。その伯母が年始で訪ねてきた。叔母は、
 「節ちゃんも、好い叔父さんをお持ちなすって、ほんとにお仕合せですよ」
 などと言った。節子が叔父の顔を見ると、少し青くなっていた。
 節子は、廊下で岸本に会うと、
 「叔父さま、今夜来てください」
 と言った。岸本は、何か相談ごとがあるのかとも思いつつ、節子の勝手口に近い小部屋へ行ったが、それは抱擁の要求だった。
 節子は、ひときわ激しくなっていた。
 「叔父さま、大好き」
 と言い、
 「叔父さまも、あたしのこと、好き?」
 と訊くから、岸本は、
 「好きだよ」
 と答えた。
 「叔父さまでなきゃ駄目なの。もうあたし、誰のお嫁にもならないわ」
 節子はそう言った。
 岸本は、子供のことはちゃんとするから、と言った。庶子にするのだろうか、と節子は思った。一度医者へ行って診てもらったら、と言われ、節子は一人で産科医へ行った。岸本には、もしや間違いではという期待もあったようだが、間違いではなかった。結果を節子が報告すると、失望したようだった。
 だが、それからすぐに、岸本は洋行の準備にかかった。節子は、酸っぱいものが食べたくなっていた。節子と男の子たちと、手伝いのお婆さんが、高輪の新しい家に移され、岸本は節子の母に、自分の留守の間男の子らを見るため上京してほしいと頼んだ。岸本が旅支度をしている時、節子はそばへ行って、こう言った。
 「叔父さんは知らん顔をしてフランスから帰っていらっしゃいね」
 岸本の節子を見た顔つきは青白かった。
 三月半ば、岸本は家を去り、神戸港からフランスへ向けて出港した。横浜から出ても良かったのだが、大がかりな見送りになるのを避けるためだった。それでも新橋駅には大勢が見送りに出た。
 岸本は神戸に滞在して、節子に手紙を書いた。それは詫びの手紙だった。受け取った節子は、胸をときめかせた。手紙では節子が「お前さん」と呼びかけられていて、叔父が節子と苦悩を共にしていることだけは分かった。だが節子は、どこかに「恋」の痕跡がないかと探したのだ。これがそうか、と思ったりもしたが、翌日になると、そうではない、という失望に襲われた。節子はまだ神戸にいる叔父に宛てて返事を書いた。自ら叔父の胸に飛び込んでいきたい気持ちを抑えて、しかし叔父に無理にそうされたと見える恨み言めいたこともなく、二人が同じ罪の下にいる、というようなことを書いた。そして「お前さん」などというよそよそしい言葉ではなく「お前」でいいです、と書いた。
 岸本は二週間も神戸の宿にいて出船を待っていた。節子の母と祖母と妹は、東京に居を構えるためにその頃上京し、節子は品川駅まで出迎えに行くことになった。
 節子はその上京を前にして、一人で千駄木へ出かけた。青鞜社を訪ねるためである。何となく、女の問題を聞いてくれるところだと思っていたのだ。
 「青鞜事務所」という看板が家の裏手に架けられているのを見て、表へ回った。玄関のところで、何と言おうか、とまどっていると、右手の窓から女の人がのぞいて、「青鞜にお話ですか?」とはつらつとした調子で訊いた。
 中へ招じ入れられて、女は伊藤野枝と名のった。最近、青鞜に参加した人で、年は節子の三つ下の十七歳だった。
 節子は、もっと年長の人がいたら相談をしたいと思って来たから、野枝の若さに躊躇したが、岸本節子と名のり、岸本捨吉の姪で、叔父の手伝いに行っている、と告げた。
 「まあ、蘭村先生の」
 と、野枝は叔父の号を言って、
 「奥様を亡くされて大変だそうですね」
 と言って、息子さんが? お二人? それはまた、と言い、
 「私も『破戒』には感動しました」
 と、叔父の昔の小説の題を言った。
 節子は、この人はいい人のようだと思ったが、相変わらずためらっていると、うっとこみあげるものがあり、お手洗いを、と言ったが間に合わず、窓から首を出してげえっと吐いてしまった。野枝は背中をさすってくれ、節子がおちついた時、
 「叔父様と関係ができたのですね」
 と、伊藤野枝が言った。節子は涙ぐみながら、この年下の女の胸にすがるようにしてうなずいた。
 野枝は、岸本がフランスへ旅立ったと聞いて、「逃げた」と漏らした。節子は泣きそうになったが、野枝は、脇を向いて黙ってしまった。そして、もしこの先何かあったら、ぜひ、訪ねて来てください、と言って手をとった。
 品川駅で、母や弟が降り立つのを出迎えた節子は、この体の様子が知れるのではないかと緊張のため少し震えていた。
 母は「少し太ったかね」と言っただけで、夢にもそうとは考えていない様子だった。
 神戸の岸本へ、節子はまた手紙を書いて、遠くからお見送りします、と心のたけを延べた。
 岸本のところへは、節子の父・義雄や、台湾から帰った長兄・民夫も会いに行ったようだし、友人でフランスに行ったことのある有島生馬が東京から、近松秋江が堺にいたのが岸本の知らせを受けて見送りに行き、寂しい出発でもなかったようだった。叔父がエルネスト・シモン号で発ったのは四月十三日のことであった。
 それから一週間もしたであろうか。叔父が香港で投函した手紙が、名古屋の父・義雄に届いた模様であった。四月の末に、父が上京してきた。何食わぬ顔で、母や祖母の相手をひとしきりしてから、節子を別室へ呼んだ。
 岸本からの手紙は、「自分が責任をもって大兄から預かった節子は今はただならぬ身である」「自分の不徳の致すところである」「今から思えば、自分が大兄の娘を預かって、すこしでも世話をしたいと思ったのが過りである」「実に自分は親戚にも友人にも相談の出来ないような罪の深いことを仕出来し、無垢な処女の一生を過り、そのために自分も曾て経験したことの無いような深刻な思を経験した」「節子は罪の無いものである」「彼女を許して欲しい」「彼女を救って欲しい」「家を移し、姉上の上京を乞い、比較的に安全な位置に彼女を置いて来たというのも、それは皆彼女のために計ったことである」「この手紙を受取られた時の大兄の驚きと悲しみとは想像するにも余りあることで」「唯、節子のためにこの無礼な手紙を残して行く」「自分は遠い異郷に去って、激しい自分の運命を哭したいと思うと書いた。義雄大兄、捨吉拝」といったものだった。
 節子は激しく泣いた。あまり激しく泣くと、妻に聞こえる、と父は懸念した。節子は、嗚咽しながら、叔父だけが悪いのではないと父に訴えた。自分もまた誘惑したのだと述べた。
 「やめろ」
 父が抑えた声で怒った。
 「あたしと叔父さんは」
 「やめろ」
 父は、母にもこのことは打ち明けないつもりだと言い、子供の父親は吉田という男だということにする、と言った。
 「生まれたらどうするんですか」
 「里子に出す」
 節子は、しくしくと泣いた。
 五月に、岸本はマルセイユに着き、パリでの生活を始めた。父はその後の処置について岸本に手紙を書いた。節子は東京から汽車でそう遠くない茨城県の片田舎へ移されて、そこで出産することになった。節子も岸本に手紙を出した。岸本の著書も持って来ようと思ったが憚ってやめにした、と書いた。

(つづく)