「純と愛」にはまる。

 NHK朝の連続テレビ小説純と愛」を毎日観ている。私はこれを「朝ドラ」と言うのがリゴリズム的に嫌で、往年、「銀河テレビ小説」を「銀河ドラマ」と言うのも嫌だった。しかし柔軟性も必要なので使うと、朝ドラを毎日観るなんてのは『ひらり』以来、ほぼ20年ぶりである。
 7回目くらいで、昼どき、ビデオの操作中にふと見て、次回も観たくなり、何しろ舘ひろし水戸黄門的に出てくるのが良くて、はじめは昼の再放送を観ていたのだが、遂に前日から朝の放送を予約して、八時になると起きて、終ると録画を観るという具合である。しまいには主演の夏菜の「らんま1/2」まで観た。
 さてもう一人の主役、風間俊介の愛くんは、人の顔を見るとその本性が見えるという超能力者である。朝ドラ初のSFであろうか。『ふたりっ子』で未来を描いたというが、僅々四年くらいの未来であったから、これは本格SFだが、こういうのは、気違いが本気にして、「私と同じだ」とか言い出すので厄介である。筒井康隆のところへも、自分はテレパスだと称する気違いから手紙が来たりしていた。
 それはさて、私は最近、電車に乗って出かけるのがどんどん嫌になっている。駅のプラットフォームが禁煙なのが嫌で、こないだも北千住駅で喫っていて駅員と言いあいになった。若い駅員は、そう煙草ばかり迫害するのはおかしいだろうと私が言ったのに対して、「言ってることは分かりますけど、自分は立場上言わなければならない」と言い、私が喫っているとほかの人も喫っていいのかと思うから困ると言うから、「いや、君ががあがあ言ってるのも見えているからそれはないよ」と言った。駅員は「あなただって、仕事上言わなきゃならないことがあるでしょう」と言ったのだが、「いや、私はそんなところに就職しないから」と言ったら、何やら虚を衝かれていた。だいたい私の年齢から言ったら、この会話はちょっと変なのだが、30代くらいにでも見えたのかしら。
 それはさておいて、とにかく携帯電話とかゲーム機に夢中になっている歩行者とか電車内の人間とかが多く、それを見るのが嫌なのである。今日は必要あって出かけたのだが、電車内で人の顔を見ると、別に透視力がなくても、いろいろなものが見えて、大変嫌であった。お前の顔だってそうだろう、と言われたら、そりゃそうだろうと思う。
 若くて美しい女というのは今日はあまり見なかったが、この場合は、分からない。いい子であるか「猛禽ちゃん」であるか、それは分からないが、だいたい50、60となってくると、それまでの人生の苦悩歪み僻み憎悪が顔に出ているから、実に嫌である。そういうことの隠喩だと思えば、あながちSFではない、ともいえるのかもしれない。