久米正雄伝補遺

 『久米正雄伝』で、見つからないとしておいた、『現代文藝』昭和2年3月号が、昭和女子大にあるというオタどんの指摘で、ようやくコピーしてきた。
 「文壇近頃のこと(二)久米正雄剽窃事件批判」として、出席者は安藤盛・松本清太郎・鳴海四郎・金兒農夫雄の四人である。
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20110809/p1
 鳴海四郎は、アメリカ演劇の研究者かと思ったが、1917年生まれなのでこの時は十歳、同名異人である。しかしそうなると正体探索は困難であるから、オタどんに任せる。(付記:すぐ分かった。http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20110826 さすがオタどんである)。金児は見ての通り素人社社長、松本は、大正12-13年にあった聚芳閣『文學界』の編集者らしい。
 これによると、安藤が久米を訪ねたのは1月26日で、朝日新聞の記事が出てから五日後だ。朝方で久米は起きたばかりだったので、三十分くらい散歩してきてくれ、と言われて散歩していた、という。鳴海は「失敬だ」と言う。しかし安藤は話をして、すべてを忘れるつもりで来たと言い、久米は、あれが出たら、やあとうとう出ましたねと君から手紙なり何なり来ると思っていたらあんなことになって打撃だ、と言ったと言い、安藤は、すべて水に流すつもりで、久米は、これからも安藤のことは気にかけておくと言ったという。
 「失敬だ」のあとで金児が、「僕もあまりそういうことで人を責めたくないな」と言ったのへ、鳴海が「年のせいですか」と言うと松本が「なあに出版業界の色目さ(笑)」と言っているのは、いくらかは安藤へのあてつけかもしれない。

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細川重男『北条氏と鎌倉幕府』を覗いたが、あのいくぶんふざけた書き方は本郷和人さんの悪影響だろうか。「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」ということを追及しているようだが、これを「命題」と呼んでいるのはまたしても誤用である。
 身分が低かったから、というのが、私が本郷さんその他の意見を総合して書いたことだが、細川はそれを否定して、必要がなかったからであり、なし崩しにそうなったのだと言う。しかしそれも、将軍にならなかった理由として従来考えられてきたことの一つでしかなく、拍子抜けさせられた。