浜田敦の屈折

 十川信介先生が私家版で出した随筆集『落ち葉のはきよせ』に、浜田敦の追悼文が入っている。浜田敦は国語学者、当時の京大教授で、浜田青陵の息子だが世間的には知られていない。その浜田敦は、俗世間の名声を求めぬこと、地道に研究に励むこと、業績稼ぎに走らぬことを戒め、それから外れた学者への批判は峻烈をきわめた、とある。
 やや、ぞっとした。つまり、目立つな、地味にやれ、あまり業績をあげるな、ということになる。「学者病」の典型的なものだ。しかしその父親は世間的名声のある人だから、こういうのは屈折した心理としか言いようがない。浜田敦に業績がないわけではないが、傑出した学者でもない。

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091223-00000243-mailo-l34
「勉学に打ち込むあまり」って違うんだよなあ。もてない男は学歴がなくたってもてない、と言ったらむしろ変で、おそらくこういうのは、学歴があればもてるはず、という前提がある。さもなくば30歳で童貞というのは何か特別な理由があるはず、と思い込んでいる。

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『翻訳家列伝』は序文をちゃんと読めば「翻訳の質の比較が少ない」とか「原語を読めもしないのに」とかいった批判が的外れであることが分かる。私は高橋健二の『ファウスト』と池内紀の『ファウスト』を読んだが、もちろんかなり違う(特に活字の大きさが)けれど、第二部がほとんど意味不明で、どこが名作なのか分からないという点に変わりはなかった。
 まあこの、翻訳家によって何かが大きく違うはずだというのは、クラシック音楽通が、演奏家について云々するのと同じなのだ。それを批判するための本なのである。
 あと学者の強固な縄張り意識も感じる。日本文学や日本史でも、時代別専門があって縄張り、いわんや仏文、独文、露文など、読めない奴が侵入したら侵略を受けたみたいに騒ぐのである。比較文学に学んでもそうなってしまう人というのがいる。