私が学生だった頃、東大駒場池田孝一という英語の先生がいた。別に教わったわけでもなく面識もないのだが、確か90年ころ、突然辞職して、ここにいたのでは研究が出来ないと言ってシカゴ大学へ行ったと聞いた。その後どうしたのかと思って調べたら、日本の大学へ戻ってきていたらしい。
 池田孝一 1942生 東大英文科卒、同大学院修士課程修了、慶大助手(75年)、東大教養学部助教授、90年シカゴ大学、和洋女子大教授、東工大教授、2007年青短教授、11年定年。
 と転々とした。著述は、『アメリ古典文庫 ベンジャミン・フランクリン』(研究社、1975)という翻訳が見当たるほどである。 

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大嶋幸範という人だが、この人は例によって、抽象的な議論が好きらしい。いや、別にさほどひどいことを言われているとは思っていないが、この人が私に違和感を感じるのは、私が抽象的な議論とか、難しい言葉を使わないからである。
 ところで井筒俊彦だが、この人は長くイランにいて、『意識と本質』を出したらあちこちで賞賛された。大学で教えていた丸山圭三郎先生が、「井筒さんも、僕があんまり褒めたもんだから…」などと言っていて、いきなり「井筒さん」とかいうものだから、私は井筒親方かと思った。井筒俊彦の夫人は井筒豊子といってこの人も学者で、中公文庫で『白磁盒子』という短編小説集を出している。また豊子は「井筒トヨ」として英語で日本の美学について書いたものがあって、北米でよく読まれていた。ところが、いったん悟りの境地に入って、またそこから出る、というのがいいのだ、という趣旨が、俊彦が書いていることと同じなのである。
 井筒の業績がそれほどすごいかということになると、近年、池内恵が、井筒の研究には日本的なバイアスがかかっているということを書いている。日文研の『日本研究』に載っていたが、池内が、十年ほど前、日本のイスラム学者、特に黒田壽夫とか鈴木董、板垣雄三といった人たちが、あまりにイスラムを美化しすぎたと批判したことがあって、私は大いに納得したものである。