加藤典洋よ、お前は既に死んでいる

 前に『文学界』に連載していた「文壇から遠く離れて」は、『反=文藝評論』(新曜社、二○○三)に収められているのだが、その中の「虚構は『事実』に勝てるか」という章の最後で、私は「想像力」という語の安易な用い方を反省すべきではないかと書いておいた。この語はサルトルが用いたのを、日本では大江健三郎が盛んに使って広まった。「他者」という語もサルトル由来で、こちらは江藤淳によって広められた。この二つを合わせて「他者への想像力の欠如」といえば、今では手垢にまみれた言葉である。それを、加藤典洋が『朝日新聞』の文芸時評(七月二十五日夕刊)で使っていたから、今さらながら加藤の鈍感さに驚いたのだが、想像力なるものは、人に冤罪を着せるためにも使われるし、あらぬ噂をたてる場合にも使われる。重要なのは事実ではないか、と私は書いた。
 さて加藤は、私の「悲望」をとりあげて、「相手の女性が感じただろう恐怖と不安への想像力が、そこには不思議なほど、欠落している」と書いている。私は、何しろ小説を活字にするのは初めてだし、「文章が小説ではない」「小説ではなくて手記だ」の類の批判は甘んじて受けるつもりでいたが、加藤が持ち出してきたのは、予想される批判の中でも最低のものだ。加藤が言うような「恐怖と不安」は、そもそも作の冒頭に掲げられた手紙その他で当人が表明しているわけで、ではどう書けばその「想像力」とやらが欠落していないことになるというのだろうか。主人公兼語り手が、激しい懺悔の言葉でも連ねればよいのだろうか。それとも、女の側からその内面を書けというのだろうか。前者が、島崎藤村の『新生』の例で分かるとおり、白々しい効果しか生まないのは分かりきっているし、後者もまた、私は当の女性ではないのだから、語りえないことに属するだろう。かつて小森陽一は、漱石作品で女の内面が描かれないのは、分からないことは書かないという漱石なりの倫理だったと書いたが(『漱石を読みなおす』ちくま新書)、実際そうだろう。
 大岡昇平は、小説家でありながら、『俘虜記』、『レイテ戦記』、『堺港攘夷始末』で執拗に事実にこだわった。だがいったん女を描く段になると、たとえば自らの愛人で自殺した坂本睦子をモデルに『花影』を描いたが、それが睦子を知る人にとって不満足なものだったことは周知の通りである。想像力なるものは、その程度のものである。かつて小森陽一が、太宰治の「カチカチ山」を論じて、狸くんに説教したのを私が痛罵したことがあったが(『恋愛の超克』角川書店所収)、加藤の言はこの小森並に幼稚なものである。
 また加藤は、「作者は自分のストーカー行為を『引き受ける』つもりなのだろうが」と書いているが、意味が不明である。作者=主人公としてしまうのも文藝批評としておかしいが、「引き受ける」というのは、全共闘世代の文学中年の間でしか通じない集団語のようだ。私はただ、書かずにいられない、もしくは書きたいから書いただけであって、そこに動機も何の「つもり」もない。高校生のころ、リルケの『若き詩人への手紙』の一部が現代国語の教科書に載っており、リルケは、書きたくてたまらなくなるまでは書かないこと、と忠告している。「そこに山があるからだ」というのは、単に登山が好きなだけなのに何らかの理由づけをしようとする悪しきジャーナリズムへの皮肉である。意味などないところに、何か意味をくっつけようとするのが、ある種の知識的大衆の悪い癖である。
 加藤がわざわざ愚昧な道徳的お説教などを書いたのは、あとでフェミニストから批判されないための予防線だろう。その前に西村賢太の作品を評して、語り手の「同棲女性への男尊女卑的、かつマッチョで鈍感、身勝手なあり方」などとあるのを見ると、加藤は単にリベラル派の、政治的正しさを重んじる一派に受けのいい言辞を弄しているだけで、かつて私が『片思いの発見』(新潮社、絶版)に収めた「恋、倫理、文学」の議論など少しも踏まえていない。それで気になっていたことを書くが、加藤は一昨年、桑原武夫学藝賞を受賞した時のスピーチで、一九八三年、「柄谷行人らのポストモダンの著作が評価を集めていた頃、加藤はそこに引用されるデリダフーコーもまだ知らず、意気消沈して自宅近くの川べりを歩いていて」、「本をたくさん読まないと批評家をやれないなら、それは学問の崩れたものでしかない」(『読売新聞』二○○四年七月二十三日夕刊、尾崎真理子のコラム)とか、「本を100冊読む人の批評と、全く読まなくても自分の考えで生み出す批評とはサシで勝負できると思う。そうでないと批評が死んでしまう」(『朝日新聞』二○○四年七月二十九日夕刊)とか決心したという。
 おかしな文章である。デリダフーコーを知らないなら、読めばいいのだ。「読んだが理解できず、意気消沈して」なら分かる。現に私はデリダフーコーの著書のいくつかを理解できないし、大して読んではいない。彼らは学術的規矩を無視しているから、フランスのアカデミズムでは認められていない。そんなものを読むくらいなら、ウェイン・ブースやノースロップ・フライを読んだほうが有益である。批評は学問を基盤としたものであるべきだと私は思っているが、そもそもこんな時評を書く時点で、加藤の批評など死んでいる。このような反知性主義的な言葉に若者が惑わされると迷惑だし、学問を軽蔑しているなら大学教授など辞職してもらいたい。ところが、同じように反主知主義的な態度をとっているかに見える秋山駿は、『恋愛の発見』(小沢書店、一九八八)で、恋愛とは学校的知性を逸脱するものだと書いている。少なくとも秋山は、いや加藤の先駆者的な吉本隆明だって、「悲望」を評して、他者への想像力がどうのこうのと「学校的」なことは言わないだろう。加藤は恐らく男女が逆であれば、こうは言わないだろう。それがフェミニズムなるものの狡さであると、私は七年間言いつづけているのだが、本は読まないと宣言している加藤が読んでいないのはやむをえない。本を読まないとバカになるという見事な実例がここにある。加藤は日高川もの歌舞伎を見れば、「清姫には安珍の恐怖に対する想像力がふしぎなほど欠けている」と言い、八百屋お七には、火事で苦しむ江戸の人々への想像力が欠けていると言うだろうか。想像するだにばかばかしい。
 『毎日新聞』七月二十六日夕刊の川村湊の「文芸時評」も『悲望』を取り上げて、加藤のよりはよほどまともだが、最後に余計なことが書いてある。ストーカー規制法制定以後ならば、作者は犯罪者として処罰されていただろうなどとあるのだが、これまた平然と作者と主人公を同一視しているのはともかく、「悲望」の主人公がしたことは、拒絶の意思表明の前に手紙九通、意思表明のあとで手紙一通、あとちょっと手を掛けたほかは、同じ大学へ留学したことと、普通の葉書一枚と、お詫びの手紙二通を出しただけなのだから、逮捕などありえない。一般にストーカー規制法で逮捕されるのは、拒否の意思表明のあとにも、二十回以上にわたって電話するとか脅迫するとか、何度も待ち伏せするとかそういうケースである。だいたいが文学者たるもの、ストーカー規制法などというものは、文学の敵である可能性もあると考えるべきで、では川村は、『痴人の愛』の谷崎潤一郎は、今なら淫行条例違反で逮捕されているなどと下らないことを言うのだろうか。谷崎は『痴人の愛』を「私小説」だと書いている。文藝というのは、倫理を説く場所ではないし、少なくとも凡庸な道徳を代弁するものではないだろう。かつて私が村上春樹批判をした時に、加藤も川村も春樹礼讃者として批判されているのだから、二人ともまず私の批判に答えるのが先であろう。
 次に川村は、これを西村賢太と合わせて、自然主義の復活かと書いている。確かに「悲望」は花袋の「蒲団」を念頭に置いているが、実際には「蒲団」のような作品が、陸続として書かれたわけではない。小栗風葉が書いた「恋ざめ」は片恋小説ではなく、自分の身の上に起こった事件を赤裸々に描くという点では、大正期の近松秋江の『別れたる妻に送る手紙』と『黒髪』連作、久米正雄の『破船』、また昭和期の石坂洋次郎『麦死なず』、また太宰治の諸作品、田中英光オリンポスの果実』などに散発的に現れていて、それらは「自然主義」とは呼ばれない。自然主義そのものは、藤村にせよ花袋にせよ、バナールな現実をだらだらと描く方向へ向かい、その後は「城の崎にて」のような心境小説、つまり身辺雑記私小説へと堕していった。この点で、「蒲団」が自然主義の方向を決定づけたかのごとき中村光夫の図式は誤りであり、川村が依然としてこの古めかしい文学史を信じていないことを祈るばかりである。
 この問題についても私は、『聖母のいない国』(青土社、二○○二)で、メアリー・マッカーシーの『グループ』に触れながら、なぜ今の日本では、作家がその身辺を赤裸々に描く風の小説が少ないのか、と書いている。たとえばクッツェーの『恥辱』や、フィリップ・ロスの『ダイング・アニマル』のような小説がなぜないのか。戦後、私小説的な書き方をすると言われた安岡章太郎が、『幕が下りてから』で、自身の、先輩に当たる作家の夫人との密通を描いたが、続編『月は東に』が出たとき、川嶋至は、そこに歪曲があることを指摘し、「人が真に傷つくのは、『真実』によってではなく、むしろ虚偽のためである」と書いた(『文学の虚実』論創社、一九八七、但し初出は一九七四年)。しかし、真実に傷つく場合もあることは、柳美里や福島次郎の訴訟事件が示すとおりである。
以前、棚沢直子らの『フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか?』を某私大の学生に読ませた。フランスの大統領ミッテランに隠し子がいたことがばれて、記者が尋ねたら「ええいますよ。それが?(エ・アロール)」と答えたといい、フランスはそのようなことを問題にしない国なのだ、という。女子学生の一人が、フランスは恋愛が自由なすばらしい国だ、とレポートに書いたので、「じゃあミッテラン夫人の苦悩はどうなる?」と訊いたが、つまりミッテラン夫人の苦悩に対する想像力が欠けていたわけだな。(小谷野敦

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以上、活字にするつもりでいたがばかばかしいので放置することにしていたら、どうも加藤の言を本気にしている者がいるようなので教育的配慮から掲げておく。(例によって現物を読んでいない連中のようだが)