『比較文學研究』八十二号(2003)の、ヨコタ村上孝之氏の論文「恋と遊び−−ドン・ファンあるいは色男」の注7は、全体として私への反論になっているが、その中に「ガダマー流の解釈学にたって考えれば、ある文化はいつも二つの異なるパラダイムの対話としてしか表象されえない」と書いてある。ところが、私は今なお、「ガダマー流の解釈学」が何のことだか分からないし、だからヨコタ村上氏(以下、YM氏とする)の言おうとしていることを理解することができないのである。なぜなら、YM氏がここで、「ガダマー流の解釈学」なるものの典拠を示していないからである。論文末尾には、引用・参考文献一覧が付いているが、そこにも「ガダマー流の解釈学」を想起させるものはない。いったい、「ガダマー流の解釈学」とは何か?
 恐らく、「ガダマー」というのは、近頃百歳を越えて没したドイツの学者の名であろう。しかし、「デカルトのコギト」とか「フロイト精神分析」ならば、別段注がなくても構わないだろうが、ガダマー流の解釈学などというのは、その種の周知の事柄ではない。私はガダマーなる人物の『真理と方法』という、全三巻と銘打ちながら一巻が出ただけの邦訳を読んだことはあるが、何ひとつ記憶に残っていない。YM氏が、典拠を明示しさえするならば、それがロシヤ語で書かれていようとアラビア語で書かれていようと、私は己れの語学の才の乏しいのを嘆けば済むことである。だが、典拠が明示されていないものを、自分で捜し出すほど私はお人好しではない。要するに問題は、「ガダマー流の解釈学」などというものが、典拠の明示も必要でないほど自明だと思っているYM氏の姿勢なのである。明治以来、日本の学者、学生は、西洋の学問の移入吸収に汲々としてきた。デカルト・カント・ショーペンハウエルを略してデカンショと歌ったほどであり、特にドイツ哲学やドイツ思想なるものは、カント、ショーペンハウアーからヘーゲルマルクス、その他もろもろ、必須の教養と見なしたのが、旧制高校の「教養主義」であった。そしてYM氏は、数年前から、かくのごとき西洋学問を基準として日本を計る体のやり方を批判し、遂には比較文学なるものはナショナリスティックであるからやめてしまえと呼号してきたのである。しかるに一朝ことあれば同氏は、「ガダマー」とかいうドイツの学者の名前を葵の印籠のごとくに持ち出し、その前に人がひれ伏すとでも思っているらしいのである。まことに、反近代・反西洋の徒の演じる茶番と言うほかない。しかもYM氏は、盛んに、普遍的なものなど存在しないと獅子吼し続けてきたのだが、先の「ガダマー流の解釈学」の箇所を見るにつけ、そのガダマーとやらのご託宣が普遍的であるとYM氏は信じて疑わないらしいのだから、失笑するほかない。しかもその直前では「すべての文化は対抗イデオロギーを含んでいて、ヘテログラシアから成り立っている」ともあるが、「すべての文化」を主語として述定ができるのであれば、立派に普遍主義である。しかし「ヘテログラシア」とは何であるか、これまた私には分からないのであるが・・・。  (小谷野敦