「感じない男 」と森岡正博

 ミクシィに書評を書いておいたのだが、要望(?)があるようなのでここに移す。
 森岡は、渡辺淳一の『男というもの』を、男はこうあるべきだと決め付けていると批判しているが、どうも森岡にも、自分の感じ方を「男はこうだ」と決め付けるところがある。たとえば、男はなぜミニスカートが好きなのか、女性に訊いてみると「脚がよく見えるからじゃない?」と答えるが、男は、パンツが見えるかもしれないから好きなのだ、と言う。私は男だが、初めて知った。確かに小学生の頃は、パンツを見ることに何ほどかは禁忌破りの喜びを覚えていたが、大人になってまで女性のパンツで興奮するか。まあ井上章一も興奮しそうだけれど。(なお私は森岡のうっかりした記述を揶揄しているのではなく、どうやら本気で、すべての男はミニスカートが好きで、それはパンツが見えるからだ、と森岡が思っているらしいことに驚いているのだ)。制服についても、同じ。もちろん、射精の後の虚脱感は分かる。だが、生身の女より制服のほうがいい、少女のほうがいい、となると、それは「変態」である。そして、男の性は後天的に身に付けられるものだ、と書いて「野生児の研究」を引き合いに出すのだが、一般に「狼に育てられた少年」などとされている野生児は、単に知能発達に障害のある子供が親に捨てられただけではないかというのが、最近の定説ではないかと思う。小原秀雄『現代ホモ・サピエンスの変貌』(朝日選書)に書いてある。
 なんか変な本である。
 ところで私は以前、森岡創価学会員だ、と『新潮45』に書いたことがあるが、間違いだったらしい。これは「学会員さんのページ」というウェブサイトに、渡辺武達浅野健一と並べて載っていたので信じ込んだのである。森岡に無断でリンクしたということか。
 さてそれにしても、昨今の禁煙ファシズムは、森岡の言う「無痛文明」の最たるものだと思うのだが、森岡はそういうことを言わない。森岡は煙草嫌いだからである。自分が好きな「無痛」(煙草のない世界)については認めてしまうというのが実に胡散臭い。「無痛文明」がいけないというなら、私の煙草の煙を吹きかけて苦痛の世界を味わわせてやりたいものである。
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 ところで、創価学会員でないということは、どうやって確認すればいいのだろう。「潮」「第三文明」「パンプキン」「清流」に書くことが多いとどうしても疑惑がかかるが、では新潮社から本を出していれば会員ではない、とは言えるかもしれない。すると、かねて某女がいうごとく柄谷行人は新潮社からは出していない。浅田彰は共著ながら出している。とはいえ蓮實先生だって出していないし・・・。岸本葉子も出していないか、と思ったら横田濱夫との共著が出ていた。あと、あれほどの大作家ながら新潮文庫に一冊も入っていない村上龍。これは珍しい。ただ調べたら坂本龍一との共著が一冊あった。しかし・・・・・・「共著なんで許してください」ということも・・・・いかんいかん、妙な妄想にとりつかれている。いやしかし村上龍の意外にも平穏な家庭というのはそういう要因も・・・。      (小谷野敦