「誤読」の誤用

 最近「誤読」という語を誤用する者が多いが、これは知らずに誤用しているのではなくて意図的にやっているのである。
 その嚆矢は、東大駒場中沢新一事件ではあるまいか。あの時、中沢の『虹の理論』に「198X年」とあるのを指して、杉本大一郎が、これは学問的記述とは言えないと言ったのに対して、蓮實重彦が「誤読である」と指摘した、と言われていた。しかし、蓮實先生の言は、これはむしろ小説である、というもので、なんで小説を業績として提出するんだということになってしまい、何の役にも立たなかった。
 かくのごとく、誤読ではないものを、単に自分にとって気に入らないからとか、論駁しようとかいう理由で「誤読」と称するのが、その後流行しているらしいのである。「誤読の誤用」である。

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そういえば『小説から遠く離れて』は、作家の想像力の衰退を批判した、とか言われていたが、そうじゃなくて、物語なんてどうせみな似たようなものになるという、蓮實先生なりの「反私小説論」批判だったのだな。
 私には小説やらを分析してプロップのような分析を施すという作業を未だにやっている人というのがいるというのが信じられない。阪大にいた頃、ヨコタ村上が大学院で漫画の授業をやっていて、最後はプロップでまとめるんやー、などと言っており、私は「なんだつまらない」と言いYMは「おもしろいじゃん〜」とか言っていたのだが、何が面白いのか、である。

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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=121603822
返事になっていないのにベストアンサーに選ばれていたりして。小高恭(1937- )は阪大大学院中退、帝塚山学院大学教授だった。定年70歳なら2007年か08年に定年のはず。