小学館の『昭和・平成現代史年表』に、1970年7月14日、佐藤内閣で「日本」の読みを「ニッポン」に統一、とある。おそらく他の年表類にも載っているのだろう。私はずっとこれを信じてきた。ところが、2009年6月30日の閣議で、岩國哲人がこの点について質問書を出すと、そのような閣議決定は行っていない、という答えとともに、「にほん」「にっぽん」どちらでもいいという答弁。
 ではなんで年表に載っているのか。2009年7月3日の「天声人語」は、この件に触れて、「佐藤首相時代の70年にも閣内で談論風発した。中曽根防衛庁長官(当時)らの論議を、首相が「万歳ひとつするにも、やはりニッポン国民万歳でなければ」と収めたと小紙が伝えている。ただし閣議決定にはなっていなかった」としているが、てことは、「朝日の誤報」?
 当時の新聞を見ると「朝日」は7月14日夕刊で「ツルの一声で『ニッポン』 総理がニッポン・ニホン論争に軍配」とあり、「読売」は同号で「ニッポンと呼ぼう」とあるが、こちらは「当面政府としてはニッポンで行くことにした」とあり、山中貞則総務長官の「決定したというわけではない」という談話を載せている。朝日のほうは曖昧で、やはり「朝日の誤報」であろう。

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http://www.asahi.com/articles/ASG3H4WHWG3HPIHB00K.html
この元教授というのがもとより森本穫である。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120921
 だが、私が『文芸日女道』で見た戸籍の写しは、川端の親族のものではなかった。しかも35件もなかった。ということは、森本は、私にも謎となっている、川端の父が養子に行った「宮本」という家についてもつきとめている可能性がある。すると、あとでそれをしゃあしゃあと発表する可能性もあるのである。不正に取得した資料によって学問をするとは、これは倫理が問われるのではないか。
 
小谷野敦