トゥーランドット

 中川右介さんの『未完成』には、『トゥーランドット』の話が出てくる。プッチーニは『トゥーランドット』を完成させずに死に、別の作曲家が残りを完成させたのだが、初演の際にトスカニーニは、プッチーニ作曲の分までで演奏を終えたという話である。
 だが、私はかねて『トゥーランドット』の最後の場面が大好きで、まあ音楽はプッチーニが準備していたものを完成させただけなのだし、と思ってきた。しかし中川さんは、リューが死んだところ、つまりプッチーニ自身の作曲になるところでこれは上演を終えるべきだと思っている。リューのほうがすばらしい女だし、嫌な女のトゥーランドットなどと結ばれて何がいいのか、というのだ。
 私は全然そうは思わないのだが、それはたぶん、私が精神的マゾヒストだからで、リューなどという、歌舞伎の女みたいなのより、トゥーランドットツンデレぶりがまことにいいのである。まあ、カラフにはツンデレでも、その前に男をたくさん殺しているわけだが、これはむしろ、人類創生以来虐げられてきた女の復讐という意味あいを持っている。第一、トゥランドットを嫌な女だと言ってしまったら、春琴はどうなるのか。