くさい

 1993年の一年間、佐伯順子先生は『太陽』に毎月演劇レビューを書いていた。まあ、当時非常勤講師だった私が、毎月十日になると書店へ行って、嫉妬に身もだえしながらそれを読んだわけだが、その中でだったか、別の雑誌だったか「くさい」「くささ」という表現をしておられて、私は妙齢の女性がそういう言葉を使うことに違和感を覚えていたのである。しかし、近ごろ分かってきたのだが、これは演劇において昔からある批評用語であって、私が間違っていたと思ったことであった。
 さて、『週刊文春』で坪内が安部ヨリミの講談社文芸文庫を取り上げているのだが、この文章がまたいつものことだが、くさい。まず、講談社文芸文庫といえば、古典的声価の固まった作家のものを入れるものだから、私は作家の名前を九九パーセント(いや、百パーセント)知っている、と来る。何もそんな自慢をしなくてもいいのである。しかし、くさいのはそこではない。それから延々と安部ヨリミの生涯をたどり、ヨリミが男児をみごもっていた、と来て、最後に「その子の名を、公房という」と来る。(記憶で書いている)
 いや〜くさいくさい。芝居者がこんな演技をしたら、くさくって見ていられねえ、と言うところだ。普通に、安部ヨリミとは誰かと思ったら、安部公房の母であった、と最初に書けばいいのであって、まあこんな書き方して悦に入って許されるのは30歳までだな。野口冨士男はこんなくさい書き方はしなかった。坪内的「ジャジャジャジャーン」であるな。
 むしろ安部公房なら、山口果林の手記を読みたいな。
小谷野敦