『小説新潮』九月号に「広田弘毅は『漫才』と言ったのか」という特集記事があった。これは城山三郎『落日燃ゆ』の最後で、A級戦犯らが絞首刑に処せられる前に松井石根らが「天皇陛下万歳」を唱えていると、後から広田が板垣征四郎などと一緒に来て、教誨師・花山信勝に「いま、マンザイをやっていたのですか」と訊いたという記述である。花山は始め分からずにいたが、「ああ万歳ですか、それならやりましたよ」と言い、広田は板垣に、あなた、おやりなさい、と言い、板垣と木村が万歳三唱をしたが、広田は加わらなかったというところである。城山はこれを広田の「皮肉」ととらえている。
この話は、北一輝が二・二六事件の後で処刑される際、他の者が「天皇陛下万歳」を唱えていたのに、北は「天皇、マンザイ」と言ったという伝説を想起させる。
さて、1974年の刊行当時、平川祐弘先生がこれに異を唱えて、花山の『平和の発見』にこの記述はあり、最後に一同で万歳三唱を行ったとあるが、広田が加わらなかったとは書いてなく、「マンザイ」というのは方言に過ぎない、とした。城山はこれに反論して、自分は関係者に取材したのであり、信念は微動だにしない、と答えた。
この二文は当時『波』に載ったもので、それが再録され、梯久美子の感想文がついている。平川先生は広田の息子の広田弘雄氏にも訊いてみたが、広田が皮肉を言うような人とは思えないが、何分その場にいたわけではないので、と言われた、と書いている。
しかるに、最後の万歳三唱に加わったかどうか、これは歴然たる物理的事実であって、皮肉かどうかという解釈の問題ではない。さて城山は「花山信勝の観察と記述には、疑問がある」と書いている。
この論争を私は知らなかったが、読んでみて珍妙な感じがした。なぜなら、花山信勝は1974年には元気で存命だったからである。当時76歳、それ以後も著書を出している。城山は、花山の「記述に疑問がある」と書いているが、では花山に取材しなかったのか。平川先生は、息子の話を聞けるくらいの人脈があるなら、直接花山に取材すれば良かったのである。要するに、「マンザイ」が皮肉だったかどうかはともかく、万歳三唱に加わったかどうかは、花山の証言があればいいのに、いずれも花山がこう証言している、と言わないところが珍妙だというのだ。むろん花山は1995年に死去しており、もはや確認するすべはない。なるほど、断られてもいいから取材せよとはこのことか。
(小谷野敦)