マドンナとサヴォイ・オペラ

「マドンナのスーザンを探して」という映画があったが観ていなかったのでツタヤで借りたら「スーザンを探して」というタイトルになっていた。ウィキペディアんでは、マドンナは主演じゃないし出番も少ないから題名を変えたみたいに書いてあったが、私はそれほど出番が少ないとも感じなかった。ただし「ああこの二人が入れ違いになってドタバタして解決して終わるんだな」と思ったあたりから、真面目に観ていられなくなった。

 しかし、主演の女がマジック・ショーの手伝いになって、火を燃やして鳩が出るマジックをしたあと、バンドがごく短い間演奏する軽い音楽のメロディーが聴いたことがあって、思い出せない。これはサヴォイ・オペラのギルバート&サリヴァンの「ペンザンスの海賊」の序曲だった。

 

音楽には物語がある(32)岩崎宏美と真珠湾 「中央公論」八月号

 岩崎宏美は、結婚したあとも活動は続けたが、その頃出ていたCDには、「益田宏美(岩崎宏美)」と、夫の姓に変えた名前が記されていたりしてちょっと妙だったが、それも離婚して元に戻った。

 実力の割に評価されなかった歌手だなあ、と思って、YouTube で当時の映像を観てみたら、あっと思った。衣裳や振り付けが顔に合っていないのである。元来和風の古風な顔だちなのに、音楽がポップスだから、派手な衣装で踊るような振り付けになっている。初期の「ロマンス」でもこの不調和が気になるが、「シンデレラ・ハネムーン」あたりになると、音楽がディスコ調だからそれがさらに激しく乖離する結果になっていた。

 一九八一年の「すみれ色の涙」や、八二年のヒット曲「聖母たちのララバイ」では、岩崎自身が二十三、四歳と大人になったこともあり、しっとりした調子の衣裳と歌いぶりになっているが、もともとこんな風で行けばよかったのである。だが、結局これが最大のヒットになってしまい、結婚、離婚をへることになる。

 この「聖母たちのララバイ」は、歌詞がこの当時の時点で古臭かった。男は社会という戦場で戦って傷つき疲れているから、女が聖母としてそれを慰めるというのは、八二年の段階でも、古臭い男女観だった。七八年に竹下景子が出したデビュー曲「結婚してもいいですか」の裏面が、酒に溺れるダメな恋人に女が「私の膝で眠りなさい」「優しいララバイ、歌ってあげる」という歌詞で、それを思いだしたし、何だかオヤジ受けを狙ったみたいな曲で嫌だなあと当時も思っていた。

 ところがこの歌は、私は今回調べて知ったのだが、大変な裏事情があった。作詞は山川啓介、作曲は木森敏之で、木森は当時三十五歳の中堅作曲家だったが、歌がヒットすると、アメリカ映画「ファイナル・カウントダウン」(一九八〇)の劇中音楽のパクリだとして、作曲家のジョン・スコットが抗議のため来日し、木森が、盗作を認めたのである。聞いてみると、確かに前半部はスコットの曲と同じなのだが、だとすると山川啓介は曲にはめて歌詞を作ったのだろうか。

 この「ファイナル・カウントダウン」は、日本ではヒットも評価もされなかったが、SFアクションもので、現代の原子力空母ニミッツが、突然の嵐に巻き込まれ、真珠湾攻撃直前のハワイ近海にタイムスリップするというもので、カーク・ダグラスが艦長を演じていた。監督は元俳優のドン・テイラーだが、私はこの人が監督した「トム・ソーヤーの冒険」を、小学校五年生の夏休み、母に連れられて弟とともに日比谷の映画館へ観に行き、あまりに退屈だったため翌日弟が熱を出したという経験がある。

 しかし「ファイナル・カウントダウン」は、意外に面白かった。最新鋭戦闘機が一九四一年の太平洋上でゼロ戦と戦い、日本兵一人が捕虜になるのだが、チャイニーズ俳優を使ったらしく日本語が下手で、これが艦内で暴れて銃殺されたりし、ニミッツは日本軍の真珠湾攻撃を阻止しようとするのだが、直前に再度嵐が起きてもとの時代へ戻り、歴史の改変は起こらない。さるにても、一九四一年から八〇年までの戦闘機の発展が、その後の四十年でほとんど起きていないことに気づく。音楽もなかなかよく、それにしてもアクション映画の中に「聖母たちのララバイ」前半のメロディーが入っているとはなかなか気づかないだろう。しかしただでさえ日本人の神経がピリピリする映画から、日本人が音楽の盗作をしてヒットしてしまったとは皮肉な話だ。木森はその六年後、四十歳で死んでいるが、自殺ではなかったようだ。これが一番知られた曲だというところに、岩崎宏美の不運を感ぜずにはいられない。

 

教養読物の役割

 私が小学生のころ、小学館の学習雑誌や学研の科学と学習を毎号とっていたが、それらには付録や本文内に、秀吉の伝記とかエジソンの伝記といった教養読物がついていて、当時は今より暇だからそういうのも読んでいたのが教養になっている。その後の世代はあまりそういう雑誌を読まなくなったので教養があまりなくなったのではないかと思ったりもする。

音楽には物語がある(32)シルクロードと岩崎宏美 「中央公論」7月号

 日中交流史が専門の比較文学の後輩である榎本泰子が『「敦煌」と日本人』(中公選書)を出した。一九八〇年にNHKで放送が始まった「シルクロード」と、その後製作された映画「敦煌」を中心に、あの当時の日中文化交流を描いたものだ。

 私の名前は、井上靖の「敦煌」(一九五九)を読んでつけたというが、実際に「敦煌」を読んだら、くだらない通俗小説だったのでがっかりした。佐藤浩市と故・中川安奈で作られた映画も、ショボい出来だった。ただし中川安奈は好きだったから、早世したのは残念である。「敦煌」は中川のデビュー作だが、ヌードシーンも撮影されたが使われなかったようで、当時の週刊誌には、「あたしのヌード、あんまりキレイじゃなかったのかしら」と中川が言ったなどと書かれていたが、これは週刊誌のおふざけで、実際は使われなくてほっとしたという。

 NHKの「シルクロード」は、しかし、一向に私の関心を引かなかった。同年、ブームにあやかって「シルクロードのテーマ」と副題をつけてリリースされた久保田早紀(現・久米小百合)の「異邦人」にはエキゾティシズムが感じられたが、喜多郎の音楽には、エキゾティックというより、田舎臭さが感じられた。

 別に音楽だけが原因ではないのだが、音楽について言うと、これはその後NHKで放送されている「関東甲信越小さな旅」の主題曲を思わせるのである。この番組は「いっと6けん小さな旅」というタイトルから変わったものらしい。かつてNHKでは、「新日本紀行」という名番組を放送していたが、その主題曲は冨田勲が作曲した実にすばらしいもので、この曲とともに一地方の情景が映し出されると、日本の一地方があたかもクブラ・カーンの都のような異国味を帯びて感じられるほどだった。それとは対照的なのが「シルクロード」や「小さな旅」の音楽(大野雄二)なのである。

 調べてみると、この「小さな旅」は、のちに歌詞をつけて岩崎宏美が歌っていた。岩崎の歌自体は、曲から受けるあの感じはない。

 岩崎宏美といえば、私が中学校一年の一九七五年にデビューしているが、その頃、「ああこの人はキレイだな」と思った記憶がある。クールビューティという感じである。年ごろのせいで、それまでにも学校で好きな女子などはいたのだが、それとは違う感じで芸能人女性などを美しいと感じ始めた時期である。「ウルトラマンA」でヒロインを演じた星光子も、岩崎宏美と似た感じだったが、小学四年生だったその時分にはさほどには思わず、あとになって美貌だと思って好きになった。あの髪型がいいのである。

 岩崎宏美は、「二重唱」で歌手としてデビューする前に、初代水谷八重子の部屋子として新橋演舞場に通っていたというが、そう言われればあの髪型とか、日本人形のような和風の雰囲気も納得がいく。

 NHKの「みんなのうた」でも、岩崎の声や歌唱法は重宝されて、「ぼくのプルー」や「走馬燈」で清冽な歌声を聞かせてくれた。だがそれだけに、岩崎の代表作のようになってしまったのが「聖母たちのララバイ」だというのが私は残念なのである。これはよく知られる通り「火曜サスペンス劇場」の主題歌として知られたものだ。私が高校生のころ、二時間の推理ものドラマといえば、テレビ朝日の「土曜ワイド劇場」だったのが、日本テレビがこれに対抗して始めたのが「火曜サスペンス劇場」略称「火サス」ということになる。

「創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって」原朗 | 同時代社、2020・アマゾンレビュー


★3 その時点で言うべき
(概略)十五年戦争について共同で研究していた原朗(1943-)は、小林英夫(1939-)が1975年に「大東亜共栄圏の形成と崩壊」(お茶の水書房)を出した時、自分が学会発表した論点が盗用されていることに気づいたが、沈黙を守り、原は東大名誉教授、小林は早大名誉教授になったが、30年も過ぎて原は2013年、70歳で東京国際大学を定年となった際、かつての盗用について語った。すると小林から名誉毀損で訴えられ、原が一審から最高裁まで敗訴したのであった。
(レビュー)最初に盗用された時点で学会に訴えるべきである。著者はそれをすれば学会は崩壊すると言っているが、すればいいではないか。そうやってことを荒立てないほうが無難に出世できますよという学問界の悪しき慣習が問題なのだろう。

(書いたのは下の部分とほぼ同様の内容だが、アマゾンは二日くらいして、これは載せられないと言って来たからなんでか質問中である)

(その後しばらくして、掲載されているのに気付いた。何だったんだ)

「宇宙戦艦ヤマト」に関するありがちな誤解

 必要があって、常見陽平の「ちょいブスの時代」をいうのをざっと読んだ。単に芸能人にちょっとブスなのがいるというネタを膨らませただけだが、恋愛論史も入っていて、当然論及されてしかるべき「もてない男」が無視されていなければ、私も駄本とまでは言わなかったであろう。

 その中に、「宇宙戦艦ヤマト」について、最初の放送は人気がなかったが、再放送を繰り返しているうちに人気が出て、という記述があった。間違いで、最初の放送から女子中学生を中心にコアなファンが生まれ、ファンクラブ活動が熱心に続けられて映画化・再放送、第二作製作となったというのが正しい。常見は「ヤマト」放送年の生まれだが、よく調べはしなかったんだな。

「本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝」

122p「スティーブンソンがタヒチ島に移住して」→「サモア諸島ウポル島に」
 「中島敦はポナペ島へ」→「パラオ島へ」

(言い訳ではないのだが、私は南洋に対して興味がないので、間違えるのである)