「未来少年コナン」低視聴率の訳

未来少年コナン」が最初の放送では低視聴率だったのだが、その理由は、当時のアニメの一話完結式でなく、「ヤマト」「ガンダム」のような準一話完結でもない、ひく形式だった上、一週間に一回だったから観づらかったというのがあるだろう。

 だが実は私は初回放送を観ていないので、はなから観なかった者の感想を記しておく。私は『グラフNHK』をとっていたから、前情報は得ていたが、「未来少年コナン」というタイトルが静的であり、大塚康生宮崎駿の絵が当時としては「ガッチャマン」などに比べておとなしく見えたことと、タイトルのせいで「空中都市008」を思い出して、未来を舞台にした「ドラえもん」のようなものを想像してしまい、ジムシィジャイアンみたいないじめっ子だと思った、という勘違いがあった。しかも「NHK初のアニメ」ということが当時喧伝されて、どうせつまらないんだろうという先入観が働いてしまった(事実それからあとのNHKのアニメは軒並みつまらなかった)。

対談

 私には対談集がない。そんなに対談というのをしていないし、人気もないからである。

 『もてない男』が売れた21年前、これからいろいろ作家とか有名人と対談して、林真理子阿川佐和子にも呼ばれたりするんだろうと思ったりした。以後もさまざまに、有名人と話す機会があったらああも言おう、こうも言おうと空想したりしたが、あらかたはそういう機会もなく終わるらしい。すると、ああも言おう、こうも言おうと思っていたことは文章に化ける。対談のつもりが独り言に変わったわけである。

 

音楽には物語がある(24)ピンク・レディー(1)中央公論2020年11月 

 ピンク・レディーがデビューしたのは一九七六年八月だというから、ちょうど中学二年の私がアメリカでホームステイしていたころだ。八月末には帰国したが、うちではあまり民放の歌謡番組などを観る習慣がなかったため、「ピンク・レディー」の実物を見る機会はなく、私はぼんやりと、女の五人組くらいの編成かと思っていた。

 七七年の正月に、母の実家、つまり田舎である茨城県の石下村六軒という集落の家へ行っていた時に、初めてピンク・レディーを観た。二人組だというのはその時知った。その時歌ったのは二曲目の「SOS」で、ああこういう適度に性的な歌を半裸ふうの衣裳で歌う、それほど美人ではない二人組なのか、と思った。

 その三月には「カルメン‘77」が出て大ヒットしたから、ピンク・レディーを観たことがない、などということはまずない状況になった。作詞の阿久悠は、「どうにもとまらない」以後の山本リンダフィンガー5に続く、子供も歌う流行歌路線を目ざしていたというが、最初の「ペッパー警部」などは妙に中途半端で、何を狙っているのか分からなかった。

 「カルメン’77」の「カルメン、でっす」という敬体は妙に画期的に見えたが、ですます体の歌謡曲といえば、「てんとう虫のサンバ」「喝采」の冒頭、「北の宿から」、キャンディーズの「春一番」などがあるが、「北の宿から」は男への語り掛け形式なので、歌詞外の存在に対しての「です」は「春一番」からの影響だろう。

 次の「渚のシンドバッド」もヒットしたはずだが、私はあまり耳にした記憶がない。むしろその次の「UFO」が、空前絶後のヒットとなり、全国で大人から子供まで歌っているという状況になった。なおこれは異星人との遭遇を恋愛歌風にしたもので、「手を合わせて見つめるだけで」という歌詞は、スピルバーグの映画「E.T.」を想起させるが、「E.T.」は八二年だからあとのことだ。「日清ソース焼きそばUFO」はこの歌より前に出ていたが、さっそくCMにピンク・レディーを起用し、遺跡のように今でも焼きそばUFOは売られている。「謎の円盤UFO」という米国ドラマが七〇年に放送されており、その時は発音が「ユーエフオー」だったが、その後「ユーフォー」という言い方が広まり、この歌で決定づけられた観がある。

 当時は「エクソシスト」「キャリー」などのオカルト映画がはやっていて、超能力やUFOがブームだった。五島勉の『ノストラダムスの大予言』が売れたといい、私と同年の宮崎哲弥は、少年時代この本に大きな影響を受けたと言い、のちにオウム真理教事件が起きた時、ノストラダムスの影響を感じて、自分もオウムのようになっていたかもしれないと言う。宮崎が仏教に傾倒していったのもそのためであろう。ところが私は五島勉の本は読んだこともないし、当時周囲でそれを本気にして騒いでいた者など一人もいなかったので、ちょっと狐につままれたようであった。ともあれ、そういう時代にピンク・レディーは、大人から子供までが口にする歌を歌っていたのである。

 戦後しばらく、『少年』『女学生の友』から、小学館の学年別学習雑誌などで、歌手を中心とした芸能人がフィーチャーされることが多く、流行歌は子供文化に食い込んでいたわけである。それでも流行歌は恋愛歌が多いことから、なかなか微妙な位置を占めており、山口百恵桜田淳子森昌子などは当初花の中三トリオと呼ばれる年齢で恋愛歌を歌っていたわけで、ピンク・レディーはそれとは別系統だったろう。

音楽には物語がある(23)音楽と右翼 中央公論2020年10月

 その昔、テレビ朝日(NET)の「題名のない音楽会」という音楽番組の司会を、黛敏郎が務めていたことがある。黛は右翼の論客としても知られ、そのため番組はしばしば右翼的な内容になった。黛の背後に巨大な昭和天皇の肖像が降りてきたりしたのを覚えているが、怖いからほとんど観なかった。

 黛は、團伊玖磨芥川也寸志と同世代のクラシックの作曲家とされ、いずれも現代音楽やオペラ、映画音楽などで活躍し、團などはエッセイ『パイプのけむり』を長いこと『アサヒグラフ』に連載していた。しかしこの團も、思想的には右翼っぽい保守であることが知られていた。

 すぎやまこういちなども保守派として知られるが、私は昔から、音楽というのは右翼的な性質に傾くものではないかと思ってきた。ゴジラ映画の音楽で知られる伊福部昭も、もとは戦意高揚音楽を作っており、それを怪獣ものや宇宙戦争ものに応用しただけだ。

 私は若いころ、ドイツとイタリアという第二次大戦時の枢軸国、一般にファシズムとされた国が、オペラの盛んな国で、連合国の英国はサヴォイ・オペラのようなオペレッタのほかに、十九世紀的なグランド・オペラがなかったことから、オペラとファシズムには関係があるのではと考え、ドイツ・イタリアと連合した日本には、オペラの代わりに歌舞伎がある、というので論文を構想したが、友人に話したらゲラゲラ笑われてやめにしたことがあるが、あながち間違ってもいないのではないかという気もする。

 などと言えば、武満徹三善晃はどうだ、とか、それはクラシック音楽の話でしかないだろう、と言われるかもしれない。だが、ロックでもポップスでも、コンサートなどでの聴衆の、立ち上がっての熱狂ぶりというのは、私にはけっこう「右翼的」に見える。つまり音楽というのは、人を扇動し熱狂させる性質を持っており、それが二十世紀においてはたまたまファシズムや右翼と結びついたのではないか。左翼の歌でも、「若者よ体を鍛えておけ」など、ずいぶん右翼的で体育会的だと、初めて聴いた時には思ったものだ。「ファッショ」というのは「結びつける」という意味で、そういう点ではロックでもポップスでも大衆扇動に使うことは可能で、反政府デモでラップ調のシュプレヒコールをあげたりしているのも、音楽の政治利用だし、実際世間には「左翼ファシズム」のような例は昨今では間々見受けられる。

 ツイッターなどでも、左翼ファシズムみたいなものが盛り上がることがあるが、私は生来そういうのが嫌いなので参加しない。コンサートで立ち上がって熱狂するなどというのも参加したくない。一度だけ、若いころ「コーラスライン」の来日公演の千秋楽に行ったら、最後に観衆が総立ちになってカーテンコールを続けるのに参加してしまったことがある。漫画家の萩尾望都が、ベジャール演出のバレエ公演に行き、熱狂したさまを自ら描いていたことがあり、あ、そういうことをする人なんだ、と思ったことがある。

 レコードやラジオが現れてから、人は自分一人で熱狂することができるようになった。私は怪獣映画以外はまず映画館へはいかないが、映画館へ行く人はある意味で熱狂に身を投じたい人なのだろう。しかし私は、歌舞伎を観に行くと三階席からかけ声をかけたりするが、あれは熱狂の一種なのだろうか。ほかにもかける人はいるが、せいぜい一度に五人がいいところで、彼らとの間の連帯感というのはほとんどないから、あれは孤独な熱狂のアピールなのではないかという気がする。

小谷野敦

論文作品主義

 学問においては、どのような事実を明らかにしたか、証明したかということが重要なので、それさえ書いてあれば論文は一ページでもいいのである。

 だが特に文学研究の世界では、論文を「作品」のようにとらえる風潮が多く、実際には二、三ページも書けばすむものを、尾ひれ葉ひれをつけて60枚の論文にするのが美しくよいことだと考える人もいて、上の人がそういう考えだから若い人も追従してそういう論文を書く。あまり科学としての学問においてこういう考え方はいけないと思うことがある。

加賀淳子「浮雲城」

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 加賀淳子の「浮雲城」は『改造』1950年1月号に載り「第一部終」となっている。近衛文麿の娘昭子が、島津忠重の嫡男・忠秀に嫁いだが、整体師の野口晴哉と不倫して駆け落ちした事件を描いたもので、もちろんみな変名にしてあるが、華族の仲間から厳重抗議が来て中絶、単行本にはなっていない。

菊池寛『受難華』文庫化とその解説

 菊池寛の長編通俗小説『受難華』(じゅなんげ)が中公文庫にはいり、現物が送られてきた。手紙によると、私の『忘れられたベストセラー作家』を読んで知ったという。私が『受難華』が面白いと言ったのは『恋愛の昭和史』のころからで、知ったのは90年代に、大学院の後輩の森田直子さん(東北大准教授・日本比較文学会東北支部長)に教えられたからで、森田さんは修士論文で明治の家庭小説を扱っていた。

 しかし、菊地はこの筋をこしらえるために100冊近い西洋の小説を読んだというが、筋はこしらえたが実際に書いたのは横光利一だったともいう。

 だから文庫化は喜ばしいのだが、惜しむらくは解説が良くない。なんで私に書かせてくれなかったのかと思うが、書いているのは酒井順子で、この解説がひどい。『受難華』は三人のヒロインの結婚などを描いているが、中心となる女性は結婚前に別の男とセックスしてしまい、処女ではなく結婚したことで悩んでいる。ほかにも、夫となった男が講談雑誌を読んでいるので、下等な趣味だと軽蔑する場面が、講談周辺の人の間で問題にされることがある。

 しかるに酒井は、このようなセックス観は日本では近代的なもので、江戸時代は、武士はともかく庶民の娘は、おおらかな性の喜びを謳歌していた、などと書いている。20年前にはやった「江戸時代の性はおおらか」論だが、これは間違いである。第一に、「不義はご法度」は庶民の娘にも当てはまったので、酒井はお夏清十郎を知らないのか。ないし、それが裕福な町人の世界に限るとみるにしても、そもそもコンドームがない時代に未婚の娘が大らかな性の謳歌などできるはずがないではないか。そういうことは私がくりかえし言って来たのに、今なお目にするというのは絶望的な気分にさせられた。

小谷野敦