「怪獣総進撃」

 私は「怪獣総進撃」という映画が大好きなのだが、当時私が住んでいた水海道の駅前の映画館は、東京で上映されて2,3年しないと上映されず、私は1971年ころの上映を楽しみにしていたのだが、交通事故にあって観に行けなくなり、ベッドの上で「怪獣総進撃」とふくらみ文字で書いたりしていた。翌年「ゴジラ電撃大作戦」と改題されて上映されたが、その時初めて観たんだったかはっきりしない。

 73年ころ、おもちゃの映写機を売っていたのを買ってもらい、五分くらいのキングギドラとの戦いの映像を押し入れの襖に写したりしていた。

 だがその当時、関連書籍を入手してよく読んでいたが、これはどこかへ失われたようで、古書で出ていないかと探したのだが題名が思い出せず、国会図書館にもないようだが、このブログでこれであると気づいた。

クラウドベース(スペクトラム基地)を作ろう : 朝日ソノラマ ウルトラブックス 怪獣総進撃 - livedoor Blog(ブログ)

 これこれ。怪獣の説明文が妙にふざけていて、マンダのところは「氷がとけてマンダかいと待っていた」とかいうのを覚えている。それがあまり子供向けのふざけではなく、子供はもっと怪獣に対しては真剣に向き合っていたなあ、と思う。

正宗白鳥の「マンザイ」

『群像』の1956年12月号の177p下段に「『群像』創刊満十周年の会」という社告みたいのがあり、十月十二日に椿山荘で開催されたとあるのだが、最後に妙なことが書いてある。正宗白鳥が万歳の音頭をとったのだが、白鳥は「群像、万歳」と音頭をとり万歳三唱されたのだが、白鳥自身は手をあげず、「マンザイ、マンザイ」と聞こえたという。

 東京裁判で死刑になった者たちが、最後に「天皇陛下万歳」を三唱した時、広田弘毅が「マンザイをやっているのですか」と訊いたという説は前に書いたが、それとこれとはどういう関係なのだろうか。

 

「漫才」論争の珍 - jun-jun1965の日記

音楽には物語がある(22)中山晋平と「証城寺」 中央公論2020年11月

 私は伝記小説や伝記映画が好きである。で、昨年、北原白秋の伝記映画「この道」(佐々部清監督)を観た。白秋は戦争中に死んでいるので、戦後、女性記者が山田耕筰AKIRA)に白秋の話を聞きに行き、山田はいやいやながらに、白秋がいかに女にだらしなかったかを話すという枠構造映画だったが、女癖が悪いといえば山田耕筰のほうがずっと上なのに、そのことには頬かむりした変な映画だった。

 白秋を演じたのは大森南朋。それはいいとして、この映画では、白秋と山田の関係を中心に描いているのだが、白秋の詩に曲をつけたというのでは、山田と双璧をなす中山晋平が出てこないのも不満だった。「砂山」は、中山と山田が曲をつけているが、私は中山のほうが好きである。

 山田耕筰が、「からたちの花」に曲をつけて歌われるところが細かく描かれており、演奏には七十歳の由紀さおりと七十七歳の安田祥子が登場したから驚いた。「からたちの花」は、一番、二番、三番と、歌詞のアクセントに合わせて細かに曲を変えていることでも知られ、そこも描かれていた。以前はそういうことを言う人がいて、「戦争を知らない子供たち」などは、冒頭から言葉のアクセントを無視した曲だと言われたりしたものだ。のち、高畑勲演出のテレビアニメ「赤毛のアン」の主題歌を三善晃が作曲した時も、一番と二番で曲を変えていた。

 実は中山晋平も、作曲した「証城寺の狸囃子」でこれをやっている。一番は「証城寺の庭は」で、二番は「証城寺の萩は」で、アクセントが違うから曲を変えているのだ。しかも「からたちの花」も「狸囃子」も大正十四年(一九二五)に曲が作られている。あるいは中山のほうが先だったかと思うが、当時流行の手法だったのかもしれない。この「証城寺の狸囃子」の冒頭の「しょ、しょ、しょじょじ」のところが、ハイドン交響曲八十九番の冒頭とそっくりだと教えてくれたのは亀井麻美さんである。

 中山晋平は野口雨情との仕事が多いが、白秋―耕筰コンビに比べるとあまり知られず、伝記映画にもなりそうもない。雨情の茨城県関係者にがんばってほしいところだ。

 音楽家の伝記映画は、西洋には多そうで、ケン・ラッセルの「マーラー」や、チャイコフスキーを描いた「恋人たちの曲/悲愴」がある。戦前のものも多く、ショパンを描いた『別れの曲』や、シューベルトの「未完成交響楽」もある。しかしこれらは恋愛映画が多くて、作曲家は恋愛で味つけするのがいいのだろうか、とわりあい不審な気持ちになる。ピーター・シャファーの戯曲を映画化した「アマデウス」もあるが、私は江守徹松本幸四郎(現・白鸚)が舞台で上演したもののほうが面白かった。

 ベートーヴェンなら「不滅の恋/ベートーヴェン」があり、異色作として「パガニーニ・愛と狂気のヴァイオリニスト」もある。ベルリオーズでは戦時中の「幻想交響楽」がある。

 クララ・シューマンはピアニストでロベルトの妻ながら映画化人気が高い。キャサリン・ヘプバーンの「愛の調べ」は、シューマンの死後のブラームスからの恋慕を拒む様子が描かれているが、その種の事実はなかったらしく、ナスターシャ・キンスキーの「哀愁のトロイメライ」はクララがシューマンと結婚するまでを描いており、ブラームスは登場しないが、ブラームスの子孫だという女性ヘルマ・サンダース・ブラームスの「クララ・シューマン 愛の協奏曲」では、前より濃厚なクララとブラームスの恋愛が描かれてしまった。

 シューマンは梅毒で死んでおり、売春婦を買ったり女遊びをしたりする男だったのは間違いない。山田耕筰など、映画にするどころか、まともな伝記すら書かれていないのが現状である。

音楽には物語がある(21)さだまさしと「秋桜」 中央公論2020年10月

 さだまさしといえば、もう四十年も前だろうか、ラジオか何かから流れた「案山子」(一九七七)の「元気でいるか、町には慣れたか」という郷里の母親からの手紙形式の歌が流れるのを聴いた私の母が、「これ、いい歌ね」と言った時から、ああ、おばさんキラーなんだなと思っている。

 「関白宣言」(一九七九)は、フェミニストに批判されたというので新聞記事になったが、聴いてみたらベタベタの愛妻歌だったから、これを批判するフェミニストというもののレベルの低さに、高校生ながら驚いた。私は中学生の時から『フェミニスト』などという雑誌を購読していたが、だいたいその後もフェミニズムというのは一部を除いて程度の低いところで何か言うものであり続けている。

 「防人の詩」は、映画「二百三高地」(舛田利雄監督、一九八〇)の挿入歌としてヒットしたものだ。当時高校三年だった私は、単純な護憲左翼だったから、日露戦争礼讃みたいな映画の歌を歌うのか、と嫌悪感を覚えた。のちに、この歌詞の着想は、堺正章が歌った「みんなのうた」の「空と海の子守歌」(一九七七、別役実作詞)と同想ではないかと思うし、私は「空と海の子守歌」のほうが好きだ。

 一九七九年に放送された、倉本聡脚本の「北の国から」の主題歌もさだまさしであった。「北の国から」は二時間スペシャルが作り続けられたので、このスキャットが長く使われることになった。

 余談ながら、「北の国から」では、学校の先生の原田美枝子がUFOに乗り込むのを子供たちが目撃するという場面があり、前年公開の倉本オリジナル脚本の映画「ブルークリスマス」と思い合わせると、この当時倉本はUFOの実在を信じていたのではないかと思う。のちのスペシャルで原田が再登場した時、その話題も出してごまかしているところがある。

 この「北の国から」も、大衆受けするドラマとしてバカにする向きもあるのだが、私は大阪から帰ってきた九九年にそれまでの分を一気見して、吉岡秀隆の純の初恋の相手・横山めぐみのかわいいのに感嘆し、医師相手の不倫で妊娠してしまった中嶋朋子の蛍を救うべく正吉がたくさんの花を贈って求婚するとか、農業のやり方で他と対立した岩城滉一が事故死してしまうところとか、割と好きで観ていたものである。

 倉本の脚本がうまいのは当然だが、このシリーズは、吉岡秀隆中嶋朋子という二人の名子役を得たところが成功のカギだっただろう。

 さてしかし私がさだまさしで気になるのは、山口百恵が歌った「秋桜」(一九七七)である。明日は嫁入りするという娘と、その母を歌ったものだが、発表当時から考えても十年から三十年は前の風景に思える。だいたい、母親は四十代から五十代だろうが、六十代くらいに感じるし、「嫁入り」が永訣のように描かれており、今でも遠いところへ嫁入りするならあるだろうが、古めかしい感じは否めない。歌詞も冷静に考えると、母が縁側でアルバムを開いて、娘の幼いころの思い出を「何度も同じ言葉くりかえし」たり、嫁入り支度の手伝いをしながら感傷的になって、「元気で」と何度もくりかえす、とか、いうのが、実際に考えると情景が構成できない。だから雰囲気だけの歌詞になる。

 しかしこの歌はどういう層に受けるのだろうか。どうもこれはおばさんキラー歌ではない気がする。ここで歌われているような母娘密着型の親子だと、娘は結婚しそこねることが多いからで、そういう娘で、母の呪縛に気づかない人が、いつかあるだろう結婚を夢想しつつ、その実母親大好き気分で受容している歌なのではないだろうか。

梁英聖「レイシズムとは何か」アマゾンレビュー

2021年1月8日に日本でレビュー済み

 
著者は日本における在日朝鮮韓国人へのレイシズムを国籍と結びついていると論じる。欧米と違って日本の在日はシティズンシップを獲得していないという。ならばなぜ帰化しないのか。1952年に旧日本領で日本国籍を持っていた朝鮮人が国籍を剥奪されたというのは分かるが、剥奪が不当なら帰化すればいい。それとも日本国が1952年の行為を謝罪して無条件で国籍を付与すべきだというのか、そのあたりがいささか晦渋な行論の中で分からなくなっている。帰化したらいいんじゃないか、という問いを問うのはおかしいのか、それを説明してもらいたかった。
 また著者は資本主義を批判しているが、現実には一党独裁になるだけの社会主義を目ざすのだろうか。

21世紀の純文学小説10点

文學界』で鴻巣安藤礼二、江南が10点ずつ選んでいたが割と不満だったので自分の選んだのをあげておく。

車谷長吉「忌中」

勝目梓「小説家」

西村賢太「小銭をかぞえる」

大江健三郎「水死」

三木卓「k」

柳美里「JR上野駅公園口」

島本理生「夏の裁断」

今村夏子「あひる」

村田沙耶香コンビニ人間

宇佐見りん「推し、燃ゆ」

 自分のはさすがに抜いた。

「世界の小説大百科 死ぬまでに読むべき1001冊の本」のアマゾンレビュー

2021年1月6日に日本でレビュー済み

 
編者のボクスオールという人は、本書を見てもウィキペディアを見ても生年が分からない。1001もどうやって集めたのかと思ったら半分以上は20世紀以降の、通俗小説めいたものまで含めてのものだった。「黄金のろば」が1400年代にあるのは謎だし、「デカメロン」も「カンタベリー物語」もない。大江健三郎は「芽むしり仔撃ち」しかないし、川端は「千羽鶴」なんか入っているのに「眠れる美女」がない、遠藤周作村上春樹が不要に多いといった具合だが、まあこれはまじめに読む本ではなく、あれがない、こんなバカなものが入っていると騒ぎながら楽しむものなんであろう。