音楽には物語がある(23)音楽と右翼 中央公論2020年10月

 その昔、テレビ朝日(NET)の「題名のない音楽会」という音楽番組の司会を、黛敏郎が務めていたことがある。黛は右翼の論客としても知られ、そのため番組はしばしば右翼的な内容になった。黛の背後に巨大な昭和天皇の肖像が降りてきたりしたのを覚えているが、怖いからほとんど観なかった。

 黛は、團伊玖磨芥川也寸志と同世代のクラシックの作曲家とされ、いずれも現代音楽やオペラ、映画音楽などで活躍し、團などはエッセイ『パイプのけむり』を長いこと『アサヒグラフ』に連載していた。しかしこの團も、思想的には右翼っぽい保守であることが知られていた。

 すぎやまこういちなども保守派として知られるが、私は昔から、音楽というのは右翼的な性質に傾くものではないかと思ってきた。ゴジラ映画の音楽で知られる伊福部昭も、もとは戦意高揚音楽を作っており、それを怪獣ものや宇宙戦争ものに応用しただけだ。

 私は若いころ、ドイツとイタリアという第二次大戦時の枢軸国、一般にファシズムとされた国が、オペラの盛んな国で、連合国の英国はサヴォイ・オペラのようなオペレッタのほかに、十九世紀的なグランド・オペラがなかったことから、オペラとファシズムには関係があるのではと考え、ドイツ・イタリアと連合した日本には、オペラの代わりに歌舞伎がある、というので論文を構想したが、友人に話したらゲラゲラ笑われてやめにしたことがあるが、あながち間違ってもいないのではないかという気もする。

 などと言えば、武満徹三善晃はどうだ、とか、それはクラシック音楽の話でしかないだろう、と言われるかもしれない。だが、ロックでもポップスでも、コンサートなどでの聴衆の、立ち上がっての熱狂ぶりというのは、私にはけっこう「右翼的」に見える。つまり音楽というのは、人を扇動し熱狂させる性質を持っており、それが二十世紀においてはたまたまファシズムや右翼と結びついたのではないか。左翼の歌でも、「若者よ体を鍛えておけ」など、ずいぶん右翼的で体育会的だと、初めて聴いた時には思ったものだ。「ファッショ」というのは「結びつける」という意味で、そういう点ではロックでもポップスでも大衆扇動に使うことは可能で、反政府デモでラップ調のシュプレヒコールをあげたりしているのも、音楽の政治利用だし、実際世間には「左翼ファシズム」のような例は昨今では間々見受けられる。

 ツイッターなどでも、左翼ファシズムみたいなものが盛り上がることがあるが、私は生来そういうのが嫌いなので参加しない。コンサートで立ち上がって熱狂するなどというのも参加したくない。一度だけ、若いころ「コーラスライン」の来日公演の千秋楽に行ったら、最後に観衆が総立ちになってカーテンコールを続けるのに参加してしまったことがある。漫画家の萩尾望都が、ベジャール演出のバレエ公演に行き、熱狂したさまを自ら描いていたことがあり、あ、そういうことをする人なんだ、と思ったことがある。

 レコードやラジオが現れてから、人は自分一人で熱狂することができるようになった。私は怪獣映画以外はまず映画館へはいかないが、映画館へ行く人はある意味で熱狂に身を投じたい人なのだろう。しかし私は、歌舞伎を観に行くと三階席からかけ声をかけたりするが、あれは熱狂の一種なのだろうか。ほかにもかける人はいるが、せいぜい一度に五人がいいところで、彼らとの間の連帯感というのはほとんどないから、あれは孤独な熱狂のアピールなのではないかという気がする。

小谷野敦