「唐傘」と「唐草」

「あまがさ」や「ひがさ」は濁るが、「からかさ」は濁らない。後半部に濁音があると濁らないがからかさは例外だという。

 しかし「からくさ」も例外だろう。すると「から」が問題なのかと思ったが「からぼり」は濁る。最後が「さ」ということで考えたが、「ふさ」はちぶさ、あかぶさ、しろぶさと濁る。八房は濁らないがこれは犬名だ。

世代論の当てにならなさについて

私は昔から世代論に懐疑的である。たとえば荒俣宏プロレタリア文学について書いていることについて、私と同年の宮崎哲弥は、自分らの世代ならパンクだと思う、と書いたが、私はパンクとかロックには興味がない。まあこれは私の側が特殊なんだろうが、やはり同年の原武史の小学校時代の左翼体験などは、まったく同じ年の人間の体験とは思えなかった。さらに驚いたのはノストラダムス体験で、私の『宗教に関心がなければいけないのか』は宮崎哲弥への疑問だったのだが、宮崎は子供のころ五島勉の本を読んでノストラダムスを本気にし、それがのちオウム事件の時に、自分らもああなっていたかもしれないという気持ちへつながったという。これは確かに宮崎の『正義の見方』に書いてあるのだが、私はちょっとしたレトリックだろうと思って本気にしていなかった。何しろ同年の私が、ノストラダムス本になど何の関心もなかったし、周囲にそれを信じて騒いでいる者もいなかったからである。

 となると、宮崎はわりあい私が同年だと思って話していることがあったから、話が最初から食い違っていたことになる。

松阪青渓

今度出た千葉俊二先生の本に、菊原琴治検校を谷崎潤一郎に紹介した人として、兵庫県文人・松阪青渓が登場する。孫に当る八木マリヨ様(環境芸術家)のご教示でその生没年を明らかにしたので以下、閲歴と主な著作を記す。

松阪青渓(1883年12月30日ー1945年3月21日)

本名:寅之助。三重県尋常小学校卒。1909年読売新聞の短文懸賞に入選。『女性』編集者、朝日新聞美術記者、高島屋美術部キューレーターを勤めたあと、船場に茶道具店を開き、谷崎潤一郎熊谷守一薬師寺管主だった橋本凝胤らと親交のある文人であった。「谷崎潤一郎氏と猫」『青厳寺拾要集』など多くを執筆している。

*『上方趣味芝居情景』上方趣味社, 1932
*『上方趣味酒茶風興』上方趣味社, 1932
*『上方趣味茶の大徳寺』上方趣味社, 1933
*『關地藏院案内記』關地藏院, 1943
*『霊山高野』金剛峯寺, 1943

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www.mariyoyagi.net

 

「山崎正和オーラルヒストリー」書評(週刊朝日)

 七十歳を過ぎたような学者の知り合いには、私はことあるごとに、自伝を書いてくださいと言うことにしている。学者の自伝は最近好きでだいぶ読んだが、何といっても学問的にも、時代の雰囲気を知る史料としても面白い。とはいえ、自伝であれ伝記であれ、「まんじゅう本」はどうもかたわら痛い。つまりキレイゴトに満ちた、誰それ先生は偉かった式のものである。
 山崎正和は、自分で書くのではなく、数人の信頼する後輩学者によるインタビュー形式で、自伝をものしたと言えるだろう。パッと見たところ、これもキレイゴト本に見えるかもしれない。ところがどっこい、山崎はそんな人ではなかった。
 十年くらい前に何回かに分けて採録され、内部ではすでに出ていたのが、やっと公刊されたらしいが、裏話が実に面白い。特に、山崎の論敵となった江藤淳が、大磯で開かれた吉田茂をめぐるシンポジウムに来た話はすごい。かねて加藤典洋が、この時の吉田茂批判以来、江藤は「反米」になったのではないかと言っており、私もそう思って、その前提となったシンポジウムで何かあったなと睨んでいたのだが、果して、江藤は吉田茂批判をして、シンポをぶち壊しに来たのだと山崎は言い、帰りにタクシー券を渡したら、わざとなのか、江藤はそれで軽井沢の別荘まで行ってしまい、タクシー代が出演料を超えたという話を披露してくれる。この後、江藤による「ユダの季節」という粕谷一希、山崎、中嶋嶺雄批判の文章が出るのである。
 山崎が差配しているサントリー学芸賞の創設についても、選考委員になると受賞できないので、芳賀徹ははじめ選考委員にせず、三回目に受賞してから委員にしたなど、私も気になっていた舞台裏が明かされる。
 あるいは、一九六四年頃の京都での話だと思うが、泥酔して自殺すると叫ぶ高橋和巳を、山崎と河出書房新社寺田博がホテルまで抱えて連れていき、その間に河出の坂本一亀が素早く高橋の愛人に話をつけた、とか、関西文化圏の、山崎・サントリーグループと勢力を二分するかに見える、梅原猛との関係についても、梅原と山崎の対談で、梅原が怒りだしたという裏話も披露されて、山崎ー梅原の緊張関係をうかがわせて面白い。
 山崎といえば、劇作家であり、演劇美学の研究者であり、文学・文化の評論家でありと多様な側面をもつが、学問と文壇の橋渡しをした人とも言える。もちろん、一般には「文藝評論家」などと呼ばれる。実は私は若い頃、山崎や梅原猛のような、学問と文壇の中間あたりにいるような人に憧れて、自分もそうなりたいと思ったりしたものだが、時節は変わって、山崎が著作集を五十前に出したようなことは、今では売れっ子の評論家でも起こらない。
 政治的には保守派とされることが多いが、丸谷才一とともに、左翼的な部分もあって、その何とも言えないところが面白い。コロンビア大学でキャロル・グラックに世話になったが、そのあとでグラックは山崎を保守派として批判し、天皇制に反対だったのに天皇から勲章をもらったとか、山崎の著作の英訳を妨害したとかいう話も出てくる。
 だが、ここから山崎正和本人に関して得られる情報は少ない。そこがやはり自伝の限界で、山崎に関する情報は、誰かほかの人の著作から得るべきものなのだろう。同じころ『亀井俊介オーラル・ヒストリー』(研究社)も刊行されたが、これについても似たようなことが言える。
 大学院へ行っていない大学教授というのもいるが、大学院へ行く効能の一つは、学界の複雑怪奇な人間関係を学ぶことである。それをゴシップでしかない、学問ではない、と汚らわしげに退ける人もいるが、紫式部が「日本紀などは、ただ片そばぞかし」と言わせたように、公式の学問史などというのは表面をなぞっただけである。

音楽には物語がある(6)替え歌 

 谷村新司「昴」というのは有名な曲だろうが、私は十数年前まで、これの本当の歌詞を知らなかった。というのは、一九九○年に、春風亭柳昇が「カラオケ病院」という新作落語の中でこれの替え歌を歌ったのだけを知っていたのである。「カラオケ病院」は、はやらない病院で、人気回復のために患者を集めてカラオケ大会をやるのだが、それぞれ病気に応じた替え歌を歌う。風邪は「星影のワルツ」痔が「お久しぶりね」、水虫が「昴」といった具合で、痔のところなどひときわ下品で、初めて聴いた時は、いかにも田舎の老人向けな落語だなあと思ったのだが、何のことはない、柳昇の代表作になってしまい、私も、まあこれはこれで柳昇らしい落語かもな、と見直した。
 その「昴=水虫」は「目を閉じて寝ておれば、水虫がかゆくなり」という歌詞で、私は十数年間、この歌詞しか知らなかった。実際の曲を聴いても、抽象的な歌詞なのでどうも頭に入らず、歌ってみても柳昇版の水虫の歌詞になってしまう。
 私の知っている女性(実は妻)で、父親が嘉門達夫のビデオを見せていたため、古い歌謡曲などは嘉門の替え歌でしか知らない、という人がいる。これなど大掛かりな「水虫・昴」であろう。柳昇の場合、著作権はどうしているのか、と思うが、プロの歌手ではないから見逃されているのか。
 内外を問わず、替え歌というのは数多い。古いものでは救世軍が歌っていた「こははらからを滅びより」があるが、これは「お玉じゃくしは蛙の子」といえば一番通りがいいが、アメリカの民衆歌がもとで、南北戦争の際に北軍の行進曲として作られた「リパブリック讃歌」を経由して、日本では「お玉じゃくし」や「ごんべさんの赤ちゃん」やヨドバシカメラのCMになっている。
 「メガネドラッグ」のCMは、戦時歌謡隣組」の、リズムをとってメロディーを変えたもので、小林亜星の曲という。だがウィキペディアには書いてないが、これが放送され始めた一九八〇年ころには、「隣組」のメロディーだった記憶があり、それからほどなく今のメロディーに変わったと思う。「隣組」を作曲した飯田信夫は当時まだ存命だったから、クレームが来て直したのだろうか。
 古いところでは、大正年間に演歌師の添田知道が歌ってはやらせた「パイのパイ節」または「東京節」があるが、これも南北戦争の時に作られた「ジョージア行進曲」が元で、西洋から日本への替え歌には米国発のものが多いようだ。
 「アルプス一万尺」というのも、米国民謡「ヤンキードゥードゥル」の一部のメロディーからとったものだ。私は中学生の時米国にホームステイして初めて「ヤンキードゥードゥル」を聴き、あれっと思ったことがある。
 子供が替え歌を作るというイメージがある。私も中学一年の時、はやっていた「およげ!たいやきくん」の替え歌を、主役を囚人にして作ったことがあるが、もちろん広まったりはしなかった。小学校と中学校で一緒だった小高という女子生徒がいた。地味だがちょっとかわいい子で、小学生時代には彼女を好きな男子もいた。中学生になって、胸があまり大きくならず、彼女の友達らが、彼女を「ちいだか」とあだ名で呼んでいたが、島倉千代子の「からたち日記」のメロディーで「ちいだか、ちいだか、ちいだーかのむーねーは、ぺっちゃんこ」と合唱したりしていた。
 ブルーコメッツの「ブルー・シャトウ」(一九六七)には、有名な「語尾替え歌」がある。「森とんかつ、泉にんにく」というやつだ。子供がよく歌ってはいたが、果たして子供が作ったのか。「ルンペン」などという語彙から、高校生か大学生が作ったのではないかという気がする。

「ナジャ」の謎

今回の芥川賞選評で松浦寿輝岡本学「Our Age」を「アンドレ・ブルトン「ナジャ」の日本版を思わせる一女性の謎を、歳月を隔てて解き明かそうとする物語」と書いている。

 「ナジャ」は、大学生のころ唐十郎などが言っていたので読みたいと思ったが、当時は文庫とか廉価版がなく、86年ころになって、古書店で買った『アンドレ・ブルトン集成』(人文書院)に載っている巌谷国士の訳で読んだが、まったくわけが分からない小説で、そりゃシュールレアリスムなんだから当然ともいえるが、これを、女を追い求めるとか謎を解き明かそうとするとか、まとめるためにはよほど綿密な読解が必要であろう。松浦が言うのだから間違ってはいないだろうが、何だかロマンティックなものを予想していた私ががっかりしたのは事実である。

小谷野敦

「ロッキー」に感動する

 私は、若いころ読んだり観たりした小説や映画を、あとになって改めて評価するということはまずないのだが、「ロッキー」を35年ぶりに観たら感動して不覚にも泣いてしまった。

 貧困地区に住むロッキーの鬱屈を隠して生きる姿、夜にジョークを考えてペット屋に行きエイドリアンに話しかけるさま、借金のとりたてを請け負っているやくざへの腰の低さ、エイドリアンの兄の粗暴さ、トレーナーの元ボクサーがマネジャーにしてくれと懇願に来たのをさんざん罵ったあとで追いかけるロッキーと、下町の貧民街の人情が胸にしみたのである。まあ、20歳ころの東大生には分からなかったのも無理はない。

 あとはこの前年に作られた「さらば愛しき女よ」にスタローンが端役で出ているのを知ったのもある。スタローンが自分で脚本を書き、アメリカン・ドリームを実現したのだというのがそれで何か胸にしみた。