花咲くチェリー

 子供のころテレビで観たドラマの記憶があった。家長らしい男と家庭内の紛擾劇だが、その男は鉄の棒を背中で曲げようとしていて、最後に妻が家を出ていくところで、あわてて、棒を曲げて見せる、と言って渾身の力で棒を曲げ、「曲がったぞ!」と叫んで倒れてしまう、というのだけ覚えていた。

 先ごろ北村和夫が20年くらい前にやった一人芝居「東京夢幻図絵」の再放送をやったのを観ていたら、それが、北村自身が演じたロバート・ボルトの「花咲くチェリー」(1957)であることに気づき、その翻案である「たそがれよとまれ」(中井多津夫脚本)で、1970年9月16日にNHKで放送されたことが分かった。とすると私がまだ水海道にいて小学二年だった時、三島事件の二か月前である。主演は加東大介、妻は大塚道子だった。ボルトは「アラビアのロレンス」などの映画脚本でも活躍した人で、この作は演劇の代表作、木村光一の翻訳が同名の作品集と「今日の英米演劇3」に入っている。文学座の持ちネタだった。

 しかし読んでみたが、先ごろ読んだアーサー・ミラーの「みんな我が子」と同じ、アメリカの家庭内のごたごたを描いた芝居は、何か決定的に時代遅れになっているという気がした。オニールといい、このあたりのアメリカ演劇は、何だかみすぼらしくって私にはたまらない。

 北村の一人芝居は面白かったのだが、それは北村がうまいからで、今村昌平が童貞で初めて娼婦とセックスしたらカントン包茎がポンといって抜けて股間に激痛がきたという話もあった。それは医者行かないとダメだろう。

 北村は自分が出演した井伏の「黒い雨」の映画についても話して「正義の戦争より不正義の平和のほうがいい」と言うのだが、北村があげた「不正義の平和」というのは、男女がいちゃついたり不倫したりしている平和のことで、いや「不正義の平和」というのはナチス占領下のフランスとか、戦後東欧がソ連の衛星国だった状態とか、カースト制度が厳しいインドとかのことじゃないか、と思った。

小谷野敦

吉行和子と河内桃子

 私が中学一年の時、人形劇「真田十勇士」を観ていたら、脇にいた母が、夢影か何かの声を「あらっ、これ吉行和子じゃない?」と言う。私は毎日録音するくらい調べてみていたから「河内桃子だよ」と言ったが、母はエンドクレジットの「声の出演」まで見て、おかしいなあと言っていた。

 まあ似ているといえば似ているんだが、よく聞くとやはり違う。

シーモンキー

 私が小学校四年生のころ、通信販売で「シーモンキー」というのを買った。小さな海老なのだが、プラスチックの円筒に水を入れて卵から孵す。成長してもごく小さいが、ポンプの代わりに毎日別の容器に中身を移して戻すことになっており、私はラーメン丼を使ってせっせとやっていた。蓋もついていなかった。

 ある日、遊びに来ていた従妹がこれを倒してしまい中身が全部流れ出て私は泣き喚いた。金魚じゃないから掬って戻すこともできず、最初から全部やり直さざるをえなかったのだ。家族は知っていたから注意していたのだが、従妹は珍しがって手にとったのでそんな惨事が起きたのだ。

 まだファミコンもない時代で、子供はこんなもので遊んでいたし、小学館の学習雑誌や学研の科学と学習が届くとその付録に熱中したもので、いろいろと「ない」時代だったんだなと思う。

書評 木下昌輝『まむし三代記』 週刊読書人

 「あとがき」を見ると、『小説トリッパー』に「蝮三代記」として千枚以上連載したものを破棄して、改めて書き下ろしたとあるから驚いた。連載のまま書籍化すると埋もれる、とあるが、おそらく連載は斎藤道三三代を史実に沿って描いたもので、長いこともあり、売れないと見たのか。斎藤道三が実は二代にわたると分かって、宮本昌孝が『ふたり道三』を書いており、これは割と長く、二度文庫化されているが、それに対してどう新味を出すかということが問題だったろう。一代道三なら司馬遼太郎の『国盗り物語』がある。

 読んでみると、書き下ろしのほうは、短くした上にミステリー要素を入れてある。私見では歴史小説とミステリーとでは愛好者にずれがあり、ミステリー好きで司馬遼太郎をバカにする人もいる。歴史小説にミステリーを導入したといえば加藤廣の『信長の棺』があるが、木下は、初代の長井新左衛門尉=松波正五郎の父として松波高丸という人物を設定し、これが管領細川勝元の側近だったという設定から、本来の三代道三の話の合間に高丸の逸話を入れ込み、「国滅ぼし」というキーワードで全編をつなぎ、初代新左衛門の仲間として源太など複数の架空の人物を配して、美濃乗っ取りの策がなされるという仕組みにした上、「道三」の名をもつもう一人の歴史上の人物をからませるというからくりにした。

 連載を捨てて書き下ろしをするほどに、歴史小説の世界が凄絶な闘争場になっているのか、とも思うが、実際、司馬、吉村昭宮尾登美子らののち、歴史上の、小説にして売れる人物はあらかた描きつくされており、大河ドラマになったからといって売れるわけではないのが現状だ。また技法についても、そうそう新機軸は打ち出せない。木下はここで「経済」に目をつけた。これまた、佐藤雅美がかつて徳川時代を舞台にした歴史経済小説の世界がある。実は木下の、直木賞候補になった「宇喜多の捨て嫁」は、私は高く評価できなかった。諱を呼ぶ程度のことであんな暴力沙汰にはなるまい。それに比べたらだいぶ小説はうまくなった。しかしトリックのために、ところどころ叙述トリックのように会話がおかしくなるのはやむをえない。また、私は自分が文筆で生計を立てているから、作家にとって売れるか売れないかは絶体絶命の場であるのも分かっている、のだが、ミステリーに歴史小説が膝を屈するのはいかにも悔しい。

 小説が面白いということを言うために「イッキ読み!」などという言葉が使われるが、一気に読むというのは目にも良くないし、文学的にも良くはない。むしろミステリーの読み方で、歴史小説はゆったりと川が流れるように読みたいものだ。ネタバレを避けたためにあまり中身に踏み込めなかったが、決して木下はそういう意味での歴史小説の魂を失ってはいない。いずれ川の流れるように読める堂々たる長編をものしてもらいたいと思った。

知らめ

 山田洋次監督の「ダウンタウン・ヒーローズ」(1988)に、

「憧れを知る者のみわが悩みを知らめ」

 というエピグラフが、冒頭と最後に出てくる。

だが「知らめ」の「め」は已然形で、間に「こそ」が入らないと現れないはずである。

早坂暁の原作にこの言葉はない。

東大卒といえど文学部ではなかった山田洋次であった。

面識がなくてもできること

 大杉重男古井由吉について書いている。

http://franzjoseph.blog134.fc2.com/blog-entry-141.html

 古井の文学は私はもともと評価しておらず、その点では大杉のまとめは凱切だと思うが、ここで、古井のセクハラにあったとされている女性作家は清水博子だろう。そして清水が差別語で罵った作家というのは川上未映子であろう。私は清水の生前、「笙野頼子から「川上未映子をいじめたんだってな、絶交」と言われた」というメールをもらっていて、死後それを公表したことがあるのだが、その後笙野が、川上とは面識がない、と書いたため、ある人から、私が書いたことが間違っているのではないかと言われたことがある。だが「差別語で罵った」となれば、面識がなくてもそういうことはありうるのである。私の書いたことが間違っていると思っている人がほかにもいるかもしれないので一応言っておく。

小谷野敦

ジョアナ・ラス「テクスチュアル・ハラスメント」アマゾンレビュー

 女がものを書くとさまざまな手口で「否定」される、とラスは言う。だがそのラスは、フェミニズムにとって都合の悪い女作家は、自分で否定しているのだ。マーガレット・ミッチェルとパール・バックは名前さえ出てこず、エリカ・ジョングなど批判さえされている。平安朝における宮廷女房たちの物語や和歌がこれほど評価されている日本で、こんな本を翻訳して、何の意味があろうか。(なお削除されたらしいがそれに言及している人がいるので元の文章を見ることができない状態で批判だけ見られるのはアンフェアであろう)
小谷野敦