斎藤美奈子は『趣味は読書』(2003)で、普段から本を読んでいる人などというのは、国民のごく少数派なのだと書いていて、私は目ウロコで、それ以来、百万部売れても日本人全体の一パーセントだと言い続けている。
 ところがその斎藤が『週刊朝日』で柄谷の『憲法の無意識』を評して、憲法関連の本が売れているがこれも国民の無意識かなどと書いている。樋口と小林節の本が六万部とかあったが、そりゃ国民の0.06パーセントでしかないのである。『カエルの楽園』は二十万部超えている。
 駿馬も老いては駑馬に劣るか。

 一か月ほど前に届いたシンポジウム記録『ポストモダンを超えて』のあとがきで、編者の三浦雅士は、チョムスキーについて、ヒト誕生から十万年で言語の獲得などという進化論的突然変異が起こるのはおかしいと書いていて、むしろマイケル・トマセロらの仮説のほうが説得的だと書いていたのだが、先日の「毎日新聞」の、チョムスキーへのインタビューの書評では、ほぼチョムスキーに軍配をあげた形で、六万年前の突然変異を紹介している。
 しかし突然変異は、集団に起こるものではなく個体に起こるものだから、チョムスキーは同書で、その個体の子孫が言語を獲得し、出アフリカを起こしたのだと言う。すると、突然変異を起こさなかったほかの人類は、要するに滅びてしまった、ということでいいのだろうか。

ツイッターでどこかの学者らしい人が書いていた、子供向け伝記なのに野口英世の濫費を描いたものというのは、福和すみえ『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 野口英世』(ポプラ社、2009)であろう。なお表紙の著者は「プロジェクト新・偉人伝」で、福和の名は奥付に小さく出ているだけである。
 「花の東京へ! めくるめく青春の日々」の章で、

 しかし、このあたりから清作の生活に変化が出てくるのです。
 始まりは、試験が終わってホッとし、ついネオンに目が行ったことでした。吸いこまれるように入った店では、夢のようなひとときが待っていました。初めて会う清作にやさしくしてくれるお姉さん。グラスに入ったお酒。(略)それからのことは…・・・、あまり覚えていません。気づけば下宿に転がっていました。ガンガンする頭で財布をのぞくと、なんとカラっぽ。

 というあたりだろう。

明治書院の『昭和文学年表』全七巻はすばらしいもので、昭和期の文藝の総覧になっている。文藝誌はもちろん、新聞からも拾ってあって、『婦人公論』など漏れもあるが、日本近代文学に関心のある人は座右に置くべきものだ。 
 ところが、刊行当時、売れないのを懸念したのか、妙な細工がしてあり、帯に「昭和十年代生まれの人 あなたが生まれた時に文学は」などとあり、高校生が漢文の勉強に使う穴あき栞みたいのが附録についていて、「自分史作成のシオリ・ガイド」として、この栞で、あなたの想い出の年月に栞を当ててマーカーで色をつけてみましょうなどと書いてある。まあそんな酔狂な目的でこんなレファレンス本を買う人など一人もいなかっただろう。





 

道路交通法の穴

 近所の中学校は図書館の隣にあるのだが、下校する中学生がそこから踏切まで、左側通行をしているので、中学校に電話をかけた。その反対側には大きな団地式マンションがあり、そのわきに歩道がある。
 ところが中学校では、警察で、そこはいいと言われたと言う。それで警察に電話したら、
道路交通法第十条に、
「第十条  歩行者は、歩道又は歩行者の通行に十分な幅員を有する路側帯(次項及び次条において「歩道等」という。)と車道の区別のない道路においては、道路の右側端に寄つて通行しなければならない。ただし、道路の右側端を通行することが危険であるときその他やむを得ないときは、道路の左側端に寄つて通行することができる。 」
 とあり、右側の歩道はマンションの私道であるため、そこは通るなと言われたら通れないので、左側通行やむなし、ということであった。
 だが自転車でその脇を通る私としては、ふざけた中学生男子に衝突したこともあって、釈然としない。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20160302
 教えてくれる人があって知ったのだが、ここに出てくる井上美奈子という人は、
茅辺かのう 1924年-2007年3月 || カヤベ, カノウ
本名・井上美奈子。京都市出身。東京女子大学英文科卒。
 という人らしく、以下著書二冊がある。
『階級を選びなおす』文芸春秋 1970
アイヌの世界に生きる』筑摩書房 1984
 つまり社会運動家だったわけである。

別冊宝島 現代文学で遊ぶ本』(1990)で武藤康史が「大西巨人老いたか?」という奇妙な文章を書いている。武藤は当時33歳くらいか。映画好きで保守派な感じの文章で知られていたから、大西巨人なんか読んでいるのが意外だったが、パーティで初老の人物から「好きな作家は?」と訊かれて、大西巨人と答えたという対話体なのだが、『神聖喜劇』を蓮實重彦はまだ読んでないと言っていたという話から、『天路の奈落』(講談社1984)をとりあげているのだが、これは『神聖喜劇』と違って、苦労して読みとおす価値があるとは思えない珍妙な作で、大西自身はあとがきで、ジッドの言をかりて、『神聖喜劇』がロマンならこれはsotie(笑劇)だと言っている。しかし共産党をモデルにしたらしい左翼党派の内部抗争をやたらと引用で埋め尽くされた文章で読んでも別に笑えはすまい。中野重治の『甲乙丙丁』ですら私にはバカバカしくて読めなかった。なぜ武藤がこういうものを読んでいたのか、分からない。会った時に訊いておけばよかった。
なお本文はここ http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/tenro.htm
内容紹介はここにある。http://d.hatena.ne.jp/odd_hatch/20150617/1434491532