世代論の当てにならなさについて

私は昔から世代論に懐疑的である。たとえば荒俣宏プロレタリア文学について書いていることについて、私と同年の宮崎哲弥は、自分らの世代ならパンクだと思う、と書いたが、私はパンクとかロックには興味がない。まあこれは私の側が特殊なんだろうが、やはり同年の原武史の小学校時代の左翼体験などは、まったく同じ年の人間の体験とは思えなかった。さらに驚いたのはノストラダムス体験で、私の『宗教に関心がなければいけないのか』は宮崎哲弥への疑問だったのだが、宮崎は子供のころ五島勉の本を読んでノストラダムスを本気にし、それがのちオウム事件の時に、自分らもああなっていたかもしれないという気持ちへつながったという。これは確かに宮崎の『正義の見方』に書いてあるのだが、私はちょっとしたレトリックだろうと思って本気にしていなかった。何しろ同年の私が、ノストラダムス本になど何の関心もなかったし、周囲にそれを信じて騒いでいる者もいなかったからである。

 となると、宮崎はわりあい私が同年だと思って話していることがあったから、話が最初から食い違っていたことになる。