武藤康史の『文学鶴亀』

 国会図書館へ行って調べものをしてきた。待ち時間に、もちろん喫煙室で、武藤康史の『文学鶴亀』を読んで、しばしば興奮し、いくつも耳を折ってしまった。しかし、「70になるまで著書は出さない」という禁は遂に破られたようで、私はいま校正中の著書の記述を訂正しなければならない。
 しかし何しろ15年以前に書かれた文章が多く、しばしば言及される私と同年の俵万智の話などが出てくると、懐旧の念に胸を締め付けられる思いがした。あの頃は武藤さんも30前後、私や俵万智は20代半ばだったのだ。
 書誌の話、日本語の話、里見恕sの話など興趣は尽きないし、古びてもいない。二十年間の思索と探求が凝縮されているから、無駄な重複もない。
 だが、これはもうずっと以前から気づいていたことだが、武藤氏と私とでは、関心の方向性は似ているが、好みは違う。私は和歌にはあまり興味がないし、吉田健一も興味がないし、田中康夫は嫌いである。小津安二郎にも、武藤がとりあげるような映画にも、興味がないし、平田オリザも評価していない。武藤がいつから慶応なのか知らないが、幼稚舎から慶応であるかのような感じすらして、貴族趣味である。
 ちょっと変だと思ったのが、幸田弘子による樋口一葉「十三夜」の朗読を聴いたあとで原文を見て、お関がタバコを吸う場面があったので「ゲゲー、お関は煙草を吸うような女だったのか…同情心も半減する」とあり、しかし当時は女も煙草を(煙管で)吸う時代だったので云々とあって、もしや武藤さんは嫌煙家なのでは、と思いぎょっとした。だが、女が煙草を吸うのが嫌なのかもしれず、この初出は96年なので、そんな感懐も普通に書けたというだけかもしれない。何しろ、田中康夫を論じる段では「スチュワーデスって現代の娼婦でしょう」などと書いてあるのだ。いや、現代の娼婦はソープランド嬢である。
 ところで、中に『言海』の話も出てくるのだが、武藤も、高田宏による大槻文彦の伝『言葉の海へ』に触れていない。私はこの大仏次郎賞受賞作を、新潮文庫で、カナダから一時帰国後、またカナダへ戻る機中で読んだのだが、これがちっとも面白くないし、だいいち伝記としては薄すぎるだろう。高田宏はやはり編集者であって、著作家として優れているとは言いがたい。大仏賞をとったのも、選考委員が高田に世話になったとか、そういう関係ではなかったかと思う。要するに大槻文彦のちゃんとした浩瀚な伝記というのは、未だに書かれていないのだ。
 もうひとつ。私もご多分に漏れず『新明解国語辞典』をおもしろがった口だが、あれは「娯楽辞典」であって、別に「いい辞書」ではない。
 ところで国会図書館だが、マイクロ複写の受付が新館にあって、雑誌と新聞のカウンターが本館にあるのは困る。マイクロが多いのは雑誌や新聞なのだから、マイクロの受付も本館にしてほしい。あと『ヤングキング』とかいう最近のマンガ雑誌を見ているやつがいたが、ああいうのは出入り禁止にできないものか。