やっぱりこいつが来たか

 今日の毎日新聞夕刊で中島岳志と対談しているのは片山杜秀。やっぱりこいつが来たか、という気がしている。恐らく中島は、戦争は絶対いかんが天皇はよろしいという戦後民主主義者だろうと睨んでいたからで、ただその内容たるや、例によって妙に抽象的かつ俯瞰的で、二人とも、天皇制がなぜいいのかを論じない。まああの程度の紙面では徹底討論はできないだろうが、片山は、右翼の一君万民に対して左翼は一君なしの万民思想で「『自立した孤独な個』が対等に連帯すること」だと言い「人間はそんなに強いものでしょうか」と言っている。しかし、それを言うなら自立した孤独な個に対立するのは、強固な共同体であって一君ではない。事実、立憲君主制と共和制とで、個々人の心理のあり方がそう変わるものではない。重要なのは共同体の強さでしかあるまい。天皇がいるから日本人は安定しているなどと言うのはそれこそ土人部落の酋長、と言いたいところだが、土人部落の酋長ならカリスマ性があれば個々の土民に心理的安定を与えられるだろうが、天皇ではそうは行かない。まあまさか片山が、佐藤優並のおそまつな天皇擁護論を唱えるとは思えないが、あまり感心しないね。「反近代」というなら、後継者を確保するために皇室は一夫多妻制に戻せ、憲法から削除して自然的超越的存在に戻せと言うのが本物の右翼だろう。結局、右翼研究はしていても、自分自身のスタンスがよく分からないのが片山杜秀である。

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救いようのない戦後民主主義雑誌『論座』の広告が、天皇と死刑が特集だったので、これは拙著『なぜ悪人を殺してはいけないのか』に関わるので立ち読みしてきた。天皇のほうは、まるで右翼雑誌、「これからの皇室をどうするのか」みたいな話ばかりで、北原みのりに至っては、私たちは黒田清子さんと同じなのだなどと相変わらずバカ丸出し。死刑のほうは、特集小見出しに「存置派の欺瞞、廃止派の怠惰」とあるから、ほう私は欺瞞なのか、どう欺瞞なのか見てやろうと思ったのだが、井上達夫はもちろん廃止派ながら、バカな感情的・キリスト教的廃止論など唱えておらず、結局四つの論考のどれも、「存置派の欺瞞」など書いてなく、もしかすると死刑執行官が書いた手記が、欺瞞を突いてでもいるつもりなのか、私は前掲書で、死刑執行人制度ができて国民の中から執行したい者に執行させるというなら私は喜んでやると言っているのだから欺瞞ではないし、いちばん呆れたのは編集後記における一女子(女性とは言わぬ)記者の、死刑というのは改心した凶悪犯が粛々と刑に服するものだと思っていたので、執行官の手記を読んで驚いたという、バカ女子大生みたいな文章で、こんな無知蒙昧の輩が編集部にいるのかと呆れ、結局一番愚かで欺瞞的なのは編集部だということが深く分かった。まあ『論座』には唯一、佐藤優が登場していないという点でのみ存在意義があるので、今後とも頑張ってもらいたい(右翼に連載させるなよ、『状況』)