ジグソーパズル文学を排す

 こないだファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』を読んだら、断片から構成されていて、時系列とか語り手とかがばらばらになっていて、再構成すると筋が出来上がるものであった。バルガス=リョサにもそういうのがあったし、ラテンアメリカ文学とか、クロード・シモンの長編もそうらしく、こういうのが現代文学では多いようだ。
 あほらしい。
 『オイディプス王』だって、最終的には過去の物語を再構成していく物語だし、泉鏡花の『歌行燈』だってそうだが、別にそう新しい技法ではないし、じゃあ再構成された物語が面白いかというと、そうでもない。『歌行燈』なんかは、名作だが、あれの亜流をやられても困る。
 こういうのは、娯楽性を意識してやって、一人の読者に対してせいぜい、二、三回しか効かないものである。誰かが再構成してみせて、こうなりますどうですかと言われても、へえそれで、何が面白いんですか、ということになる。『風の詩を聴け』も実はそうだったわけだが、これはまあ、いいほう。
 私は将棋とか囲碁とかチェスとかいうものに興味がないのだが、このジグソーパズル的文学の面白くなさというのは、詰将棋というものを見せられて、こうこう、こうすれば詰むんだと教えられて、はあ、と思いつつ、それで、何が面白いのであろうか、と思うのと似ている。「数学はパズルのように面白い」と言われても、いや別にパズル面白くないんですけど、といった具合である。