講談社社長短命の謎

 講談社というのが、昔「大日本雄辯会講談社」だったことを知る人は多い。しかしこれは、野間清治(1878-1938)が1909年に興した大日本雄辯会と、1911年に興した講談社が、1927年に合併したものである。従って、高橋源一郎の『官能小説家」に出てくる夏目漱石が、講談社の編集者から挨拶されて「大日本雄辯会か」と言うのは、漱石生前には合併していないのだからちょっと変なのである。
 さて野間清治は1938年に60歳で急死し、長男野間恒(1909-38)が後を継いだが、ガンのため22日後に死ぬという悲運を見ている。とはいえそれでは、継承した時はかなり重態だったろう。そこで清治の未亡人野間左衛(1883-1955)が三代目社長となり、恒の未亡人登喜子に高木省一を迎え、この野間省一(1911-84)が戦後社長となった。省一には娘佐和子しかいなかったようで、阿南惟幾の五男惟道を佐和子の婿とし、81年惟道(1937-87)が五代目社長となったが、これが49歳で死去、佐和子が六代目社長となって今に至っている。
 円谷英二の死後、後を継いだ円谷一が早世したのに似ているが、恒と惟道にはもちろん血縁はなく、短命の血筋というわけでもない。
小谷野敦