岡田時彦弔辞のゆくえ

 またしてもH先生にお尋ねすると、岸松雄『人物・日本映画史1』(ダヴィッド社、1970)の「岡田時彦」の項の記述を教えられる。これは2も予告されているが出なかったらしい。これによると谷崎による岡田の弔辞は、新興キネマ京都撮影所の宣伝部長・寺井竜男が持ち帰り、のち大阪で建築業を営むようになったが、家宝として扁額にし飾っているとある。
 また橘弘一郎の『谷崎潤一郎先生著書総目録』第3巻(ギャラリー吾八、1966)にその扁額の写真が載っているという。橘は67年に死んでいるので、茉莉子が「訃報を見た」と書いているのは橘のことかとも思うが、68年春とあるから寺井かもしれないが、寺井は無名人になっていたし、映画雑誌の編集者だったとあるからやはり橘のことだろう。
 しかし岸の本には、時彦から茉莉子の母に宛てた手紙も載っており、岸が隣にいるとも知らず茉莉子が語ったことも出てくる。つまり、岡田茉莉子は岸、橘の本について知っていてもおかしくないのだが、知らなかったのだろうか。かつ橘が死んだため古書店に出たとしたら、寺井から橘が買い取ったということになり、辻褄は合ってくる。

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立川談志師匠が「いちばん許せねえのは興津要。落語の面白いとこだけとってきやがった」と言っていたことがある。興津の存命時分だった。
 落語の評論・研究の世界で、早大教授だった興津要の位置づけは微妙である。『古典落語』全6冊はベストセラーになり、私が中学生で落研にいた時は、その「上」と『江戸小咄』を買わされて、葦編三絶するほどに読んだものである。しかし、落語というのは、演者により、また同じ演者でも時により違ってくるもので、それを興津は適宜まとめて読みやすくしたもので、だからのちに速記を用いた角川文庫の『古典落語』を読んだ時は、読みにくいので驚いたものだ。しかし興津のそれは、たとえば文楽志ん生がまとめたかもしれない落語を、誰のものとも断らずに編集したものだから、実際は著作権上も問題がある。今学術文庫から復刊しているのはそこを適宜クリアしているのだろう。
 しかし、落語には定本テクストというものがない。ないことを前提にして評論・研究は行われているのだから、興津のしたことは異端なのである。正統的な落語テキストは、それこそ『志ん生全集』や『文楽全集』のような、演者別の速記テキストである。だがそれらは、初心者には読みにくい。興津のテキストは、落語の聴きとりに困難を感じる初心者向けには、いいものである。興津要の位置づけを、きちんとしなければならない。