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凍雲篩雪

凍雲篩雪(80)『黒い雨』と『重松日記』
                          小谷野敦

 群像新人賞を受賞し、芥川賞候補にもなった北条裕子の「美しい顔」が、参考文献を明記しなかったというので問題になった。そんな中で、『文學界』九月号の匿名時評「相馬悠々」は、井伏鱒二の『黒い雨』や太宰治の「女生徒」を引き合いに出して北条を擁護しているように見える。
 井伏の『黒い雨』は、作中の主人公である閑間重松のモデルである実在の重松静馬の日記をもとに書かれていると言われ、井伏は重松の了解を得てその日記を使ったのだが、井伏のオリジナル作品とはいえないのではないか、と議論になってきた。井伏を擁護して、この表現は井伏独自のものだろう、などと言うと、もとの日記にあることが分かるといったこともあり、猪瀬直樹太宰治伝『ピカレスク』で、井伏さんは悪人です、と太宰が言ったことにしたりしたため世間に知られ、ついに『重松日記』は二〇〇一年に筑摩書房から刊行された。
 ところが、そこで議論はぱたりと止まってしまったのである。学者の中には、両者の対照表を作った人もいたが、文藝ジャーナリズムでは黙殺に近い扱いが続いてきたのだ。二〇〇八年の『<盗作>の文学史』(新曜社)で栗原裕一郎がこれをまとめたが、事態は改善しなかった。かねて名古屋の豊田清史という人が、井伏の盗作だとか、井伏は日記の使用料を払わなかったとか感情的な井伏攻撃をしていたのだが、二〇一〇年に豊田も鬼籍に入った。栗原は豊田についてかなり厳しい批判をしているのだが、井伏擁護派の黒古一夫は、少しでも井伏にケチをつける者は許さんという気構えで、栗原まで豊田と同意見であるかのように書いた(『井伏鱒二と戦争 『花の街』から『黒い雨』まで』彩流社, 二〇一四)。
 私は『黒い雨』は、せいぜいのところ、重松と井伏の共作とでも見なすほかない、重松の日記に井伏が手を入れたレベルの作品だと思う。
 しかし、日本近代文学には、「元ネタ」を現代語訳して少し手を加えたというような作品がいくつか、古典的作品として残っている。芥川龍之介の「羅生門」「鼻」「芋粥」などは「今昔物語」「宇治拾遺物語」から、「杜子春」は唐代伝奇からとったものである。中島敦山月記」は「人虎記」が元である。ほか森鴎外の「阿部一族」もネタ本があるし、「堺事件」などもそうだ。ラフカディオ・ハーンの怪談にしても、日本にあるものを英訳して(ただしハーンは日本語が不自由なので夫人から話してもらった)それが逆輸入されたもので、中では「耳なし芳一」などが特に知られているという状態だ。
 こういう場合に作家のオリジナリティはどうなるのか。太宰治は「女生徒」では独自の手を加えているが、「走れメロス」などはシラーの詩をほぼそのまま散文化しただけと言っても過言ではなかろう。戦後の作品となると、このようなものはほぼなくなるが、ここまであげたものが果たして作家のオリジナルなのかどうか、きちんと議論されてこなかったのが実情である。もっとも北条裕子については、島田雅彦が書いている通り、参考にして使うには練りが足りない。とはいえオリジナリティーに関する議論は、ちゃんとなされていない。西洋では、シェイクスピアの作品の多くに元ネタがあり、『マクベス』のマルカムがマクダフを試す場面などは元ネタのスコットランド史にある。しかしシェイクスピアとなると古く、近代においてこのような元ネタのある作品が古典として流通している例を私は知らない。
二、呉智英の『衆愚社会日本』(小学館新書)を編集者からもらったのだが、これは『週刊ポスト』に連載されていた時評である。その最初のほうに、小保方晴子をスパイとして活用すべきだという戯文がある。これが載った昨年秋ごろか、私は呉に葉書を出して、「小保方はスケープゴートにされたんですよ」というようなことを書いた。それに対して返事はなく、今回見たら追って書きがあり、「小保方元博士が理研の内部抗争に巻き込まれたのだなどと擁護する者があとを絶たない」などと書いてあった。小保方自身の『あの日』や、佐藤貴彦の『STAP細胞 残された謎』『STAP細胞 事件の真相』を読めば、小保方がまったくシロでないのはともかく、小保方一人をおひゃらかしてすむものでないことは明らかだと私には思えるのだが、呉にとってはそうではないらしい。
 世間では私は呉智英の影響を受けた者のように思われているようだが、確かに若いころに心酔したようなところはあったが、佐々木譲の『警官の血』に珍妙ないちゃもんをつけたあたりから、呉智英はおかしくなっているし、政治的立場は何だか曖昧だし、単なる言葉の間違いをあげつらうだけの人になっていると思う。
三、この夏はひどい暑さだった。私はヴァンクーヴァーで夏を過ごしたことがあるが、快適な気温で、考えてみるといろいろ大変だったのに、そのせいで何やら幸福な夏だったような記憶が残っている。それに比して日本での夏は、私が暑いのが苦手だということもあってろくな思い出がない。だいたい関東や関西では、冬は普通に暖房や防寒をしていればいいが、夏の外出は打つ手がない。また大学生の頃などは、夏休みに遊び相手になる女性などもおらず、家にいてドラマや映画の男女色模様を見てぼんやりしていた。こないだ考えてみたら、私は海で泳ぐとかしたことがない。せいぜい子供の頃潮干狩りで千葉県の海へ入るか、泳いだのは琵琶湖でであった。
 カナダ留学前の夏は池袋の英会話学校へ通っていて、この時は楽しかった。ひどかったのは九五年で、三月に『夏目漱石を江戸から読む』を刊行して増刷もしたのだが妙に話題にならず、それに伴う原稿依頼もなかったから、失望して不安神経症うつ状態になっていた。その後は、大学の教師をしていると、六月ころにひどく疲れて、早く夏休みになれと思うから夏というより夏休みが来るのが嬉しかった。九八年の夏休みは、依頼された書下ろしの『間宮林蔵』を書き終えたのが八月半ば過ぎで、爽快な気分になったのを覚えている。
 しかしその後、だんだん夏が暑くなってきたような気がする。それでも今年のようなのは初めてである。二〇一三年が猛暑だったというが、私はこの年の八月には、久米正雄についての講演のため郡山まで行っている。しかも全面禁煙にした新幹線に乗りたくないので、各駅停車で行ったのである。確かに暑かったのは覚えているが、今年のように外出できないほどひどくはなかった。今年は七月の半ばから私は三週間ほど近所の図書館にも行けなくなってしまった。だがその間も、返す本と、予約している本がたまっていくので、夕方六時過ぎに図書館に行く妻に頼んで入れ替えをしてもらっていた。妻は元気なのである。それでも仕事以外で外出している人はいるようだから、世間の人は丈夫なんだなあと改めて思った。

柳美里と新潮社

柳美里不幸全記録』は、表紙がヌード写真だというので騒ぐ人がいるが、『新潮45』に「交換日記」として連載された優れた私小説である。その最後のほう、2005年夏ごろに、新潮社出版部と柳との関係の断絶らしいものが描かれている。「決定」を知らせたのは『新潮』編集長の矢野優だが、内容は茫漠としか分からない。ただ、今後柳の単行本を出していく気がない、ということらしく、矢野は関知していないようである。だからか、その後柳は、小説家としてのデビューを飾った『新潮』に、本格的に小説を書いたことはないし、2007年を最後に単行本も出なくなっている。その時柳は河出書房の『文藝』編集長に手紙を書いて、その後『文藝』で小説を書かせてもらうようになった。今年になって『群像』が西村賢太の出禁を止め、60年ぶり初めて石原慎太郎を登場させたのと軌を一にして柳も『群像』に書くようになった。

 まあかくいう私は『新潮』にも『群像』にも一文字も書かせてもらえたことはないのであるが。

小谷野敦

三田佳子と小田島先生

 2002年10月6日のことだが、西新宿の原っぱで劇団唐組の「虹屋敷」を観に行った。テント芝居である。幕間に外へ出て煙草を喫っていたら、小田島雄志先生が誰か女の人と立ち話をしていた。というか、三田佳子と話していた。

 当時、例の三田佳子の次男は二度目の逮捕のあと唐さんが身元を引き受けて唐組にいたのである。私は小田島先生には何度か教わっているが、あちらは記憶していなかった。

 まあそれはともかく、次男が芝居に出るというので三田佳子は見に来たわけで、もしかしたら公演中毎日来ていたのかもしれない。これはいかん、と思わざるをえなかった。

女嫌いの男

世田谷文学館には、毎月「館長対談」というのがあり、私は佐伯彰一先生時代の2005年にやった。

 その時、佐伯先生が、私の「もてない男」のことを、一貫して「女嫌いの男」と発言していた。私ははじめぎょっとしたが、あまりに違うから、何かわけあってのことかと思い訂正はしなかった。内容について突っ込んだ話にはならず、のち館報に掲載されたものでも、その部分はなかった。

 1922年生まれの佐伯先生には「もてない男」などという言葉が恥ずかしくて言えなかったのか、とも思ったりしたが、やはりボケていたのだろうか・・・。

小谷野敦