田中優子を批判する

 田中優子松岡正剛の対談第二段『江戸問答』を、嫌だけれど読んでいたら、田中が批判されたという話が出てきて、「江戸が明るい」なんて一言も言っていない、と言っていたが、これは2000年に私と対談した時も言っていた。そのあと、師匠の広末保からも批判されたというところで松岡が、嫉妬したんだろうとひどいことを言っていて許しがたいと思った。広末は左翼だからブルジョワ的江戸ブームを批判したのは明らかなのにこういうことを言うんだこの色町お坊っちゃんは。それにしてもこの二人の話は私にはかなり的外れの連続に思えるのだが。

 それで田中の『江戸の恋』を批判した一文を『中庸、ときどきラディカル』からスキャンして貼っておくことにした。

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競輪上人と倍々賭け

小沢昭一主演の映画「競輪上人行状記」を観たら面白かったので、寺内大吉の原作「競輪上人随聞記」を探したら単行本が入手困難だったので、「小説中央公論」の初出を入手して読んだ。映画とはだいぶ違っていたが面白かった。

 中で、倍々賭けの方法が書いてあった。最初のレースから人気の高いのに千円、二千円、四千円と倍々で当るまで賭けていくやり方で、私は91年ころだったか競馬漫画でこの方法を知っていたが元はこれだったのかと思った。

 

信岡朝子『「快楽としての動物保護』書評「週刊朝日」

 ベストセラーになった『サピエンス全史』などのユヴァル・ノア・ハラリは、動物保護にも熱心なようだ。東大准教授の村上克尚の『動物の声、他者の声: 日本戦後文学の倫理』は藝術選奨新人賞を受賞した。「種差別」などという言葉も耳にして、どうやら最近では動物を差別してはいけないという言説がブームにでもなっているのだろうか、と思っていた。二、三十年もたったころには、動物をペットにすることさえ非難される世の中が来るのだろうか。動物園は動物虐待なのだろうか。      
 ドキュメンタリー映画ザ・コーヴ』は十年前のものだが、米国の、シー・シェパードのような動物保護思想の立場から、和歌山県太地のイルカ漁をとりあげて批判したもので、物議を醸した。反論として八木景子が作った『ビハイン・ド・ザコーヴ』は、米国の陰謀論になってしまっていた。    
 本書は、比較文学者である著者が米国の大学に提出した博士論文をもとに、こうした問題を、シートン動物記、星野道夫、『ザ・コーヴ』の三題噺風に再構成したものだ。日本ではなぜか位相の違う『ファーブル昆虫記』と並べて児童文学として読まれているシートンは、本国の米国やカナダではあまり読まれていないということから、二十世紀初頭、シートンジャック・ロンドンが、動物の記述が科学的事実に基づいていないと
して批判されたことや、「ナチュラスタディーズ」というものが唱えられたことが詳細につづられていく。次はアラスカで活動し、ヒグマに襲われて死んだ写真家・星野道夫についての章だが、自然の中で生きたと紋切り型で賛美されがちな星野の、自然や動物に対する紋切り型とは違う思考と、それへの批判を並べて見せている。      
 最後の章が『ザ・コーヴ』をめぐる章で、人間にとっての鯨・イルカのイメージを歴史的にたどり、ヒッピー文化からニューエイジへの過程でイルカがアイコンになり、多くのSF小説がイルカを主題にしたことに触れる。彼らは、鯨やイルカは知能が高いということで愛好するのだが、「知能が高いから殺してはかわいそう」という論理を人間に当てはめたら大変なことになると私は前から思っている。 
 そして著者は、アングロ・サクソン民族の白人エリートが、いまだに動物の肉を食べる野蛮人を作りだそうとしているのではないか、と述べつつも、それは仮説であると強調している。しばしばこうした話題になると、日本文化のアニミズムが、などと言い出して西洋との違いを述べ立てる人が学者でもいるのだが、著者は比較文学が専門なだけあって、そういう陥穽には落ち込まず、日本にも西洋にも多様な層と歴史的変異があることを見失っていない。        
 動物保護運動をする者たちは、どうやって生計を立てているのか不思議で、要するに金持ちの道楽という一面がある。それが本書の題「快楽」につながっているのだろう。『ビハインド・ザ・コーヴ』でその一人は、動物は殺すべきでない、と述べたあと、ゴキブリは、と言って口ごもっていた。もし「自然」であるべきだと考えるなら、肉食獣が他の動物を食べるように、人間も他の動物を食べて差し支えないはずで、動物保護
の論理は破綻している。
 英国貴族の狐狩りやスペインの闘牛と、食肉とは別のものだ。本書のあとで、南アフリカ出身のノーベル賞作家クッツェーの『動物のいのち』を読むと、魂だの神だの西洋人の枠組の中でしかものを考えず、ナチスを持ち出せば人を納得させられると考える西洋中心主義が見事におちょくられているのを感じる。この先にはヴィーガンという菜食主義につながる思想もあるのだが、植物も生命だと言われたら彼らはどうするのだろう。       

小谷野敦

   

大岡信編『窪田空穂随筆集』岩波文庫のアマゾンレビュー

2021年2月17日に日本でレビュー済み

 
なぜこれが岩波文庫にはいっているかというと、編者の大岡信の父が空穂門下の歌人で、大岡信も若いころから空穂に親炙し、結婚の仲人を頼み、長男が生まれた時には空穂が「玲(あきら)」と名前をつけてくれたからである、ということが解説に詳しく書いてあり、楽屋うちさらけだしていて面白い。しかし随筆集として面白いかというとそんなことはなく、早稲田の教授を務め文化功労者になった空穂が「名誉とも金銭とも無縁な私学の教員上がりの老翁」などと書いているのは、こういうそらぞらしい卑下が許された時代だったんだなあ、との感慨を催す

小林標「ラテン語の世界」アマゾンレビュー

2021年2月10日に日本でレビュー済み

以前この著者の「ローマ喜劇」を絶賛したことがある。こちらはより広いラテン語とラテン文化の話で、homo 斗umi が同語源だとか話は面白いのだが、最後のほうで日本語の話になるとけっこう怪しくなってしまうので一点減点した。明智玉(細川ガラシャは間違い)がラテン語が書けたというのに司馬遼太郎の作品を論拠(?)にしているが、司馬が用いた史料を調べるべきだったろう。また「愛」に当る日本語が貧弱だと言うが、著者は「色」とかを知らないみたいだし、「死ぬ」というのは漢語の流用だと言っているが「みまかる」とか「かむあがる」とかあるんじゃないか。また日本語に一人称とか二人称があるのかと言語学的に怪しいことを言っておいて途中でやめているのはいけません。

誰も助けてはくれなかった

未だに、禁煙ファシズムは行き過ぎじゃないか、というような文章がマスコミの片隅に載ることがあるが、私はそういうのを書く気はもうない。

 禁煙ファシズムとの戦いというのを15年近くやって、結局、誰も助けてはくれなかった。助けてくれたのは妻だけである。JTが背後にいるような組織から講演を頼まれたり、原稿書きの仕事もあったりはしたが、東大を雇い止めになる時に助けてくれた人は一人もいなかった。そこにはまあ、誰かが助けてくれるんじゃないかという私の側の甘い見通しもあった。

こちとら作家貴族じゃねえ

 前にも書いたが、1997年ころ「中国新聞」から書評を依頼されたことがある。文春の「女のこころとカラダ」シリーズの一で、長男がどうとか言う本だったが、実は依頼してきた記者が「中国新聞」に自分で連載したものだった。

 私はそこそこ褒めた書評を書いたが、記者氏は電話してきて「ざっくばらんに言ってですね」と穏やかな調子ながら、もっとしかるべく、売れるように褒めてくれと言って来た。私はそれなりに憮然として、「じゃあそっちでいいように書き直してください」と言って、結果書き直したものが載った。

 この程度のことで、なら原稿を引き上げる、と言うほどのことでもないし、仮に今私がその手の依頼を受けても、こちとら印税だけで十分な収入のある作家貴族じゃないんだから引き受ける。それだけ。