バーナード・ショーの謎

 アマゾン・プライムに1938年の映画「ピグマリオン」が入っていたので観たが、イライザ役のウェンディ・ヒラーは美しくないし、なんだかモームの「人間の絆」を映画化した「痴人の愛」を思い出したのは、ヒギンズ役がレスリー・ハワードだったからだ。私は『人間の絆』が大嫌いで、この映画も途中でやめた。

 筒井康隆の昔の日記を見ると、映画「マイ・フェア・レディ」を見て、ショーの「ピグマリオン」の改悪、とこきおろしている。何が気に入らなかったんだろう、と思ったが、私の英文科の先輩で、ショーの『人と超人』を勧めてくれた女性も「マイ・フェア・レディ」が嫌いだったようで、ショーが好きな人は「マイ・フェア・レディ」が嫌いらしい。筒井がショーが好きだという証拠はないが、筒井は演劇をやっていたからショーも読んでいたのだろう。ただしこの映画「ピグマリオン」は日本では公開されていなかった。

 だが、勧められて読んだ、岩波文庫のかなり古い訳の『人と超人』は面白くなかった。バーナード・ショーは、当時の女権運動をからかいながら戯曲を書いたので、国も違い時代も違う80年代以降は、かなり読まれなくなっていた。それでも筒井や先の先輩のように面白がる人もいたのだ。

 このショーの評価の下落について誰かまとめてくれる人はいないものだろうか。

小谷野敦

音楽には物語がある(4)フニクリ・フニクラ 

 「フニクリ・フニクラ」というイタリアの歌がある。日本語歌詞では、ヴェス
ヴィオス火山への登山電車ができたので「誰でも登れる」というもので、子供の
ころは、変な歌だなあと思っていた。だいたい「赤い火を吹くあの山へ」とか「
ここは地獄のベスビアス」とか、火山が噴火している最中に登るみたいなのであ
る。
 のち、ヴェスヴィアスの登山鉄道ができた時に鉄道会社が宣伝のために作った
曲だと知った。一八八〇年に鉄道会社の依頼でジュゼッペ・トゥルコが作詞、ル
イージ・デンツァが作曲したという。だがリヒャルト・シュトラウスはこれを民
謡だと思い、八六年に交響的幻想曲「イタリアから」に取り入れたため、デンツ
ァが訴訟を起こして勝訴したという。
 さて一九九七年十二月、NHKの「ときめき夢サウンド 子供のころ聞いた、懐かし
い外国の歌」という番組で、イタリアの歌手アル・バーノが出演し、この元歌を
歌った時、私は初めてこの歌の歌詞を知ったのだが、同番組にはかねて私の好き
だった鮫島有美子(ファンクラブに入っていたこともある)と、佐藤しのぶ、芹
洋子が出ていて、みなで並んでバーノを中心に歌った。バーノの向かって右に鮫
島、左に佐藤が立っていたのだが、バーノは歌っている最中、ずっと左の佐藤し
のぶのほうばかり向いていて、あたかも佐藤とバーノのデュエットのようだった
のは、佐藤がバーノの好みだったからとしか思えない奇観だった。
 その時下に出た字幕を見て、私はこれが男の失恋の歌だったと初めて知ったの
である。「僕は山の上へ登る。冷たい君の心がもう僕を傷つけることができない
ように」といった歌詞で、登山電車は確かに出てくるが、実に奇妙な歌だった。
最後はその娘と結婚しよう、と言って終わるのではあるが……。「フニクリ・フ
ニクラ」というのは意味のないかけ声らしい。日本では「鬼のパンツ」という替
え歌が知られている。
 男の失恋の歌というのは、あまりないか、あってもあまり成功しない。日本に
関しては、徳川時代の町人文化が、助六のようなもて男を英雄視して、振られる
男は悪役扱いされることが多かったからだが、米国のマッチョ主義でも、振られ
男は悪役とされることが多かったからだ、というのは私の博士論文『<男の恋>の
文学史』(改訂版、勉誠出版)の主題である。
 清水健太郎の「失恋レストラン」(つのだ☆ひろ作詞作曲)というのがあるが、
私にはなぜヒットしたのか分からないくらい不出来な曲で、心にあいた穴に飯を
つめこむとか、コミック・ソングにすら思える。長渕剛の「順子」はそれこそ純
然たる男の失恋ではあるが、そもそもつきあっていた女がなぜか二年待たなけれ
ばならないのが嫌でほかの男に行ってしまったというもので、私には失恋という
のはもうちょっと純粋に、一度もつきあっていない失恋であってほしいという思
いがある。そういう意味では尾藤イサオの「悲しき願い」の「片思いの恋だけは
もうたくさんだ」という叫びが最も真実らしい。男の恋に冷淡な近世日本文藝に
も、恋人を失った男の狂い舞「保名」というのもある・・・。
 山下達郎の「クリスマス・イブ」など、つきあっているのかいないのか分からな
いし、そうでないならクリスマス・イブに呼び出してコクろうとか図々しい、と
いう歌になってしまっている。まあ聴き手の自由な想像に任せるということなの
だろうが、八〇年代バブル以来、クリスマス・イヴになると、キリスト教とは何
の関係もない恋人とのラブホテル行きとかが年中行事化しているのは、何とも奇
妙な日本の風景である。

 

綿野恵太VSスティーヴン・ピンカー

『群像』七月号に綿野恵太の「ピンカーさん、ところで、幸せってなんですか?」が載って、ピンカーよりフーコーのほうが好き、などと綿野君が言っていたのだが、『群像』は一か月たたないと図書館で借りられないので今日やっと借りられた。

 『21世紀の啓蒙』の話だが、私の書評から、「死の恐怖と実存的退屈、孤独の問題」をピンカーは処理しきれていないという個所を引用しており、別段全体としてピンカーを否定しているわけではない。いろいろ社会が良くなっても不満を感じる人がいるというところからピンカー著とは直接関係ないところへ話は進んでいた。もっともこれも、綿野君が著書で言っていた通り、バブル経済の時には少なかった傾向であり、経済が悪くなると出てくるものだと言えるだろう。

 ところで「やましさ」という言葉が何度か出てきたが、これは貧しいといってもピンカーの著書が買えるくらいの人が、最底辺の貧しい人に対して感じる類のものらしい。ただ私は、自分は比較的貧しい家に生まれてよくやってきたなあ、と思っているので、その手のやましさは感じない。地主や教授や官僚の家に生まれた東大院生をうらやんだり憧れたり呪ったりして生きてきたからである。綿野君は意外に実家が太いんじゃないか、という気がした。

小谷野敦

 

「ノンフィクション」って何?

 大宅壮一メモリアルノンフィクション賞と河合隼雄学芸賞を受賞した小川さやかの『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んだら、あまり面白くなくて途中でやめにした。小川はノンフィクション作家ではなくタンザニアが専門の文化人類学者で立命館大学教授。香港のアングラ経済の参与観察をエッセイにしたものだが、読む側としては、当時30代の日本人女性がそんなことに関わっているというところに関心の軸があったのではないかな、と思った。

 日本には大宅賞講談社ノンフィクション賞という二大ノンフィクション賞があるが、いずれも三、四年前にリニューアルし、大宅は「メモリアル」がつき、選考委員が廃止されて雑誌部門ができたがこれは三年で廃止された。講談社は「本田靖春記念」などとついた。だが中身は前と変わらない。そして、初期に比べて両賞とも面白くなくなっている。

 たとえば初期大宅賞に『わが久保田万太郎』が受賞しているが、今では文学者の伝記が受賞することはまずない。高山文彦の『火花』が北條民雄伝だが、そのへんが最後か。これも、高山が「ノンフィクション作家」だから受賞したという感じがする。佐野眞一の『旅する巨人』は宮本常一伝だが、これも佐野がノンフィクション作家だからじゃないかと思う。しかし伝記は、候補にはなっている。

 あと初期には山崎朋子の『サンダカン八番娼館』が大宅賞をとっているが、最近は両賞ともセックス関係は候補にすらならなくなっている。あと判型もあって、新書版が受賞することもあまりない。どちらも、範囲を狭めることに汲々としているばかり、で中身も薄くなるという感じがする。

音楽には物語がある(3)マチルダ 中央公論2019年3月

 トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』は、今では村上春樹の翻
訳が出ているが、それまで流布していたのは、新潮文庫の龍口直太郎の訳だった。(たつのくち)表紙は映画からとったオードリー・ヘプバーンで、ただ私はそれほど面白い小説だとは思わなかった。実はあまり翻訳がよくない、誤訳が多いということは言わ
れていたが、そのせいで小説が見劣りしたのでもないと思う。
 たとえば「ワルツを踊るマチルダ」などと訳されているところがあるが、これ
はオーストラリアの有名な民謡「ワルツィング・マティルダ」のことだ。だが、
マティルダ」は女の名前ではない。「スワグ」ともいう合切袋のことである。
「ワルツ」も、ワルツを踊るのではなく放浪するという意味で、これはオースト
ラリアのヴァガボンドが、合切袋一つで放浪しながら、誰か俺と一緒に放浪しな
いか、と呼びかける歌なのである。
 「ワルツィング・マティルダ」は民謡なので、曲は一定せず、いろいろなヴァ
ージョンがある。私がよく聴いていたのは、西洋風に整えられたものだ。そこで
放浪者は、地主の羊を盗んで食ってしまう。それを見つけた地主が、こいつめ!
と追いかけると、放浪者はそこにあった井戸へ飛び込んで死んでしまう。
 だがそれで終わらない。夜な夜な、放浪者の幽霊が出ては、ワルツィング・マ
ティルダ、誰か俺と一緒に放浪しねえかい、と歌うのである。
 高校生のころ聴いて、壮絶な歌だなあと思った。オーストラリアはアボリジニ
という先住民がいるところへ、白人がやってきて植民地、流刑地にしたもので、
今でも国家元首はエリザベス二世だという英国コモンウェルスである。白人優先
白豪主義は七○年代に改められているが、そういう荒々しさがこの国民歌謡で
ある民謡にも表れていると言えようか。
 「マティルダ」が出てくるオーストラリア民謡はもう一つある。「調子をそろ
えてクリック、クリック、クリック」という、羊の毛を刈る仕事を主題にしたや
はり民謡で、日本では「みんなのうた」で放送されて知られるようになったが、
「今日一日の仕事を終え牧場をあとにマチルダ肩に」という歌詞がある。これは
一九六二年に「みんなのうた」でペギー葉山の歌唱で放送されたが、この歌を漫
然と聞いていたら「マチルダ」が何かは考えないだろう。これはもとは米国の歌
で、ヘンリー・クレイ・ワークが一八六五年に南北戦争の歌として作曲した「歩
哨よ鈴を鳴らせ」の替え歌であるらしい。この曲の「リング、リング、リング」の
ところが「クリック、クリック、クリック」になっている。今はこういう歌もた
やすくYOUTUBEで聴くことができる。私の若いころはある曲名を聴いても実際に聴
くのはこんなに簡単ではなかった。
 オーストラリアというと、私が中学生のころ、NHKの少年ドラマで放送された「
リバーハウスの虹」は原題を『オーストラリアの七人の子供たち』というエセル
ターナーの一八九四年の古典だが、これは名作と言ってよく、『サウンド・オ
ブ・ミュージック』を思わせるがその実話よりずっと前だ。
 あとやはり少年ドラマで放送された『孤島の秘密』も好きだったのだが、これ
もオーストラリア制作で、文化が二世紀前の状態で、オールマイティQという独裁
者が支配する孤島に流れ着いた男三人、女二人の少年が、島の人びとと協力してQと
戦うという冒険活劇で、少女の一人がケイコという日本人で、アマンダ・マーと
いうおそらく香港系の女優が演じていた。しかし最近調べたら、原作では中国人だ
ったようだ。原作の主題歌をYOUTUBEで聴いたら、設定を延々とセリフで説明する
歌だったからちょっと驚いた。

 

『魅せられたる魂』と川端康成」文學界2019年7月

 ロマン・ロランの『魅せられたる魂』は、ラウール・リヴィエールという五十を前にして死んだ建築家の、母親の違う二人の娘、アンネットとシルヴィを主人公にし、その数奇な人生を描いたものである。その最初のほうに、

 アンネットは気づいてみるとなるほど夜会服しか着ていなかった。するとぞっと寒気がした。身ぶるいがした。
 「あんたは気が違ったのね! 気が違ったのね!」
 と叫んでシルヴィは自分の袖なしマントで姉をつつみ、(宮本正清訳)

 という箇所がある。この箇所は川端康成『雪国』の最後の火事の場面で、飛び降りてきた葉子を抱えた駒子が、「この子、気がちがふわ、気がちがふわ」と叫ぶ場面を思わせる。
 この場面は、はじめ単行本『雪国』がまとめられた時にはまだなく、昭和十五年(一九四〇)十二月の『公論』に出た「雪中火事」に出たものだ。『魅せられたる魂』は、今日まで宮本訳しかないが、岩波文庫で宮本訳の第一冊が出たのは昭和十五年十月だから、おそらくこれを読んで借用したのだろう。
 川端がロマン・ロランに触れたのは、大正九年三月十一日の日記に「英訳ジャンクリストフ」とあり、豊島与志雄とは知り合いなのでその翻訳も読んでいる。『魅せられたる魂』もある程度は確かに読み、影響されている。戦後の『虹いくたび』は、昭和二十五年(一九五〇)から『婦人生活』に連載されたものだが、建築家の水原常男の母親の違う三人の娘を描いている。長女の百子の母は自殺し、百子は水原に引き取られ、水原の妻の生んだのが次女の麻子で、ほかに二人の娘がまだ会ったことのない、京都の藝者が生んだ菊枝という三女がいる。
 『魅せられたる魂』のアンネットは既成の社会に反逆する娘で、ロジェ・ブリソーという好男子と交際するが、結婚は拒否し、生まれた男児マルクを一人で育てる。百子は戦争で恋人を失い、その心の痛手から年下の美少年を愛するが、妊娠してしまう。そのことを少年に告げると、「うそだ。うそ言ってら、子供だなんて、僕が子供じゃないか」と言って逃げてしまい、百子は妊娠中絶する。
 リヴィエールという姓が「川」を意味することははっきり表明されているし、建築家という父の職業など、『虹いくたび』は『魅せられたる魂』に触発されていると言うことができるだろう。なお『魅せられたる魂』は昭和二十八年に日本で映画化されている(東映、春原政久監督、木暮実知代、津島恵子)。木暮は同年、川端原作の『千羽鶴』に太田夫人の役で出演している。川端の没後「伊豆の踊子」に主演した山口百恵は、『魅せられたる魂』を元にドラマ化した『人はそれをスキャンダルという』(一九七八ー七九)に主演している。

音楽には物語がある(2)現代詩 中央公論2019年2月

 小学校高学年の頃、音楽室から合唱曲が聞こえて来ていた。大人になって、あ
れはいい曲だったなあと思って探したら、子供用合唱曲「トランペット吹きながら」
であることがすぐに分かり、それの入ったLPを買った。作詞は詩人の中村千栄
子、作曲は湯山昭で、改めてすばらしい曲だと思ってくり返し聴いたものだ。こ
れは一九七二年にNHKの「みんなのうた」で放送されたもので、歌詞が「ふる
さと SL マンモスの牙」と、特に関連のない単語を並べたものから始まる、
いわば「現代詩」的なもので、私は特に現代詩が好きなわけではないのだが、適
切な曲がつくと現代詩はいいものだと思った。
 現代詩的な歌詞といえば、小椋佳の「さらば青春」などは、現代詩を広めるの
に功績のあった一般曲だろう。これも、田中健が歌って「みんなのうた」で放送
されたのが一九七五年だが、これは一九七一年に小椋が出したシングル「しおさ
いの詩」のB面である。
 私の年代だと、アニメや特撮など子供番組の主題歌が、はっきりその内容に関
連づけられたものから、抽象的なものに変化していく過程を経験している。NH
K制作のアニメでいえば、「未来少年コナン」(一九七八)が最初だが、「太陽
の子エステバン」(一九八二)あたりではまだ内容と関連づけられてはいるが独
立しても使える歌になっていた。
 人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(一九九五)の主題歌「残酷な天使のテ
ーゼ」は有名な曲だが、その詞の内容は難解だとされている。しかしこれは、一
応ぼんやりと「少年」をイメージして、それらしい言葉を並べただけである。
 ドラマやアニメの主題歌で、内容とほとんど関係のない歌詞のものが出てきて
広まったのは一九七○年代後半だと私は考えている。むろんぼんやりと内容に関
連づけてはある。そのはしりは、NHKの少年ドラマ「まぼろしのペンフレンド
(一九七四)ではないかと思う。その後も、少年ドラマの眉村卓や光瀬竜原作の
SFものにこれが目立った。眉村の「ねらわれた学園」などを原作とする「未来
からの挑戦」(一九七七)の主題歌などは、「青春讃歌」の恋の歌みたいな内容
とはほぼ関係のないものだった。
 たまたま私が耳にした中では、一九八〇年の夏に、昼の帯ドラマとして放送さ
れた「愛の陽炎」の主題歌で、なぜこれを観ていたかというと、原作が川端康成
の『山の音』だったからだが、時代は現代に置き換えられていて原作とはまるで
別ものだったが、「煙草の煙の糸が心の乱れ教える」で始まる、なかやまて由紀が歌うその主題歌は、それこそただそれらしい言葉を並べただけの、「トランペット吹きながら」や「さらば青春」のような現代詩にはてんでなっていないものだった。同じ年にNHKで放送されていた司馬遼太郎原作の『風神の門』は、霧隠才蔵を主人公としたア
クション時代劇だが、この主題歌を当時「大都会」がヒットしていたクリスタル
キングが歌った。「時間差」という題で、二人の男のライバル関係を「大都会」風
に歌ったもので、しかし「俺は今日から孤独な旅人振り向く余裕もなくしたふり
をする」とか、なんで「ふりをする」なのか、妙に分からない歌詞だった。曲は
池辺晋一郎だが、作詞は阿里そのみという、「大都会」のB面「時流」を作詞し
た人である。
 ほかにも「ガンダム」でヒットした富野由悠季のアニメ「聖戦士ダンバイン
の挿入歌で、アイドル歌手の小出広美が歌った「水色の輝き」(三浦徳子作詞)
なども意味不明だった。とはいえ、歌手が独立した曲として歌う歌の歌詞にはさ
ほど変なものはなかったから、ドラマ・アニメ主題歌の世界で、ある種の言語実
験が行われていたということだろうか。