被害妄想の構造など

 朝吹真理子「きことわ」は、当初入りこみにくく、途中までで放擲していたのだが、最後まで読むと、存外いい出来だった。貴子と永遠子が、七歳の年齢差があるように見えないという意見もあったが、その他「からがる」「年齢の差を差し置いてみて」など、おかしな日本語は気になる。
 それについては改めて語ることもあろうが、さてここで私が嫉妬に狂って、あれは私の盗作だという妄想を抱くとどういうことになるかという例を示してみよう。
 たとえば、永遠子の父親は時計修理職人であり、私の父親と同じである。ここで、ああっこれは俺へのあてこすりだ、という妄想が始まる。そして、これは「菊池涼子シリーズ」つまり『美人作家は二度死ぬ』『中島敦殺人事件』のパクリだ、という妄想が始まる。この主人公菊池涼子は、女子大の大学院の国文学の院生である。だから朝吹は読んだに違いない、と思い、最初のほうでは、同級生が小説を書いて、芥川賞の候補になる。きっと自分がこの作品でとると思って読んだのだろうと妄想は膨らむ。貴子と永遠子の関係は、涼子と、幼馴染の野島ゆかりの関係のパクリだ、と妄想し、貴子が妻子ある男とつきあっていたという設定は、ゆかりの設定のパクリだ、と思う。関係妄想の一種である。
 「万葉集朝鮮語で読める」と、四人の女が指摘して話題になった時、金田一春彦は「英語でも読める」と言い、manyoshu と書くと、many odes に似ている、とした。つまりこじつければ何とでもいえるという実例を示したわけである。(藤村由加の時ではなく、ずっと前の安田徳太郎の時のことであった) 
 片岡直子は今でもやっているようだ。困ったことである。