大江健三郎と蓮實重彦と金井美恵子

 講談社から刊行が始まる『大江健三郎全小説』を記念して、『群像』で蓮實重彦筒井康隆が対談したようだが、大江は『大江健三郎論』以来蓮實を嫌っているようで、大江と柄谷は対談しているが蓮實とはしていないのだから妙なものだ。いっぽう蓮實を今なお崇敬しているように見える糸圭秀実は筒井の宿敵である。
 『表層批評宣言』であったか、大江が雑誌を見ていて蓮實の名を見つけるとゴミ箱へ放り込むという文章を見た蓮實が、その放り込む動作が描く放物線の美しさをなどと人を食った文章で書いていて、私は若いころどこかでこれのまねをしたことがあるような気がするのだが、それは提出したレポートだったかもしれない。
 ところが金井美恵子の『カストロの尻』の最後のほうに、藤枝静男について書いた随筆があってその注(298p)に、藤枝が中村光夫に浜松で講演を頼んだら土地の文学青年が中村に愚劣な文学論を話しかけ続け、タクシーにまで乗り込み、食事の時も脇にいたから、とうとう中村が「目障りだッ、帰れ」と怒鳴り付け、青年が出した土産の菓子箱を蹴飛ばした、と藤枝が書いているのを引用した金井が、
「五十代半ばの批評家の『立ちあがって、いきなりその箱を蹴飛ばした』という若々しい野蛮な(傍点)動作と行為(…)を書き記しておきたかったのだ。菓子箱がまるでフットボールのように放物線を描いて、日本座敷の空間を飛ぶ映像を空想したくなるではないか」
 と書いているのを見て、私ははっと息をのみ、世上知られる金井美恵子蓮實重彦への眷恋の情が今も衰えていないのを感じたのであった。
小谷野敦

凍雲篩雪

凍雲篩雪(74) 紀行というもの

一、太宰治の『津軽』は、昭和十九年に「新風土記叢書」の一つとして小山書店から刊行された書下ろしである。戦時中のことだから、日本の国土礼賛という名目で出たもので、佐藤春夫の『熊野路』、宇野浩二の『大阪』、中村地平の『日向』など八編が刊行された。
 戦後も太宰の人気ゆえに『津軽』だけは新潮文庫などに入って今日まで読み継がれている。私が高校一年の時、これの一部が「現代国語」の教科書に載っており、そのため、全編を読んで感想文を書くという宿題が出た。私は当時太宰を耽読していたのだが、『津軽』は太宰らしい作品とは言えない。それで難儀して、出来がいいとは言えない感想文を書いた。
 「読売文学賞」は、どういうわけか毎年私に推薦用紙を送ってくるので、律儀に出し続けてはいるが、私が推薦して受賞した例はないに等しい。いっぺんだけ、それこそ選挙で投票しても当選しない人に投票するのが嫌で当選しそうな人に投票するみたいな気持ちで、受賞しそうなものを書いておいたら受賞したことがあっただけだ。
 読売文学賞は、部門があって、小説、戯曲、詩歌、研究・翻訳などがあるのだが、「随筆・紀行」部門というのがあって、一九六九年に設けられた。これまで紀行で受賞したのは、白洲正子『かくれ里』、瓜生卓造『檜原村紀聞』武田百合子犬が星見た―ロシア旅行』田中澄江『花の百名山』などで、最近では海外紀行が多い。この「随筆・紀行部門」の「紀行」の字を目にするたびに、別に『津軽』のことを思いだすわけではないが、私は少し憂鬱になる。紀行というのが苦手なのである。
 高校の日本語(文学)教育では、日本における紀行文の伝統などが教えられる。『土佐日記』『更級日記』『十六夜日記』『東関紀行』から『奥の細道』などで、近代になっても、田山花袋の紀行文とか、イザベラ・バードなど外国人の日本紀行がある。別に紀行が日本独特というわけではなく、ロレンス・スターンの『センチメンタル・ジャーニイ』やゲーテの『イタリア紀行』といったものがある。
 私は文学者の伝記を書いているが、紀行文は伝記資料にもなる。実際私が伝記を書いた作家には、むやみと移動する人がいる。谷崎潤一郎川端康成がそうだし、川端などは小説の発想を得るために旅をする。近松秋江もやたらと京阪に往来し、多くの紀行文を書いている。しかし秋江の紀行文は、美文ではあるが面白くない。泉鏡花の珍しい紀行文も、日記のない鏡花の伝記資料になる。
 司馬遼太郎は、歴史小説のほかに『街道をゆく』という歴史紀行めいたものを延々と連載していて、何ともエネルギッシュなのに驚くが、私はほとんど読んでいない。しかし人気はあるようだ。テレビでも紀行番組というのは根強い人気があるが、これは文章でその場を描写するのではなく、映像で見せる。
 私はまず、自然描写というものに興味がないが、これは正宗白鳥も同じだったようだ。旅行というのも、父親譲りで出不精である。一時期、大阪と関東を往復したことがあり、その前後わりあい遠出が好きだったこともあったが、何しろ至るところ禁煙になり、新幹線のプラットフォームまで最近は禁煙らしいので、遠出する気を失った。飛行機は乗り物恐怖症になってからもう二十四年乗っていない。十六年前に一回だけ金沢から帰るのに乗ったのは例外である。
 紀行文というのは、私には何やら高校教育的なものを連想させるし、概して上品なものだと思われている。もちろん中にはその土地特有の醜い面や珍奇な面を教えてくれる紀行もないではないが、おおよそはきれいごとである。「全国遊廓紀行」などというのは、文学賞をとったりしないのである。雄琴ソープランド街をルポした広岡敬一の本などはとらないのである。私は「紀行」というものが評価される際の、その上品面が嫌である。
 今ではグーグル・ストリートビューで、世界中のあちこちの場所の映像を見ることができるから、紀行文というものも自ずと変質していかざるをえないだろう。ストビューでは分からないことを教えてくれる紀行文であってほしい。
二、武田百合子は『富士日記』で名前をあげたが、『犬が星見た』はさほど面白くなかった。その百合子の祖父が、殺された鈴木弁蔵であることは、武田泰淳研究で話題になるが、鈴弁殺しの山田憲(あきら)の妻のことは、当時話題になったわりに忘れられている。山田は当時三十歳、東大農学部卒の農商務省技師で、米の買い占めで巨万の富をもつ鈴弁に外米取扱の件で贈賄をさせようとし、大正八年五月三十一日会って話しているうち、話が違うというので口論になって殺したのである。これは贈賄事件でもあり、当初外米疑獄事件とされたが、山田の妻・津艤子(つぎこ、当時二十四歳)は静岡の漆間民夫の次女で、姉・梅子は当時知られた通信技師・工学博士・鳥潟右一(一八八三ー一九二三)の夫人だった(木下宗一『日本百年の記録』)。
 鈴弁殺しのあとの六月七日、山田は旧知の警視庁方面監察官・正力松太郎を訪れて自白し、正力はいったん山田を帰し、翌日山田は逮捕されて、十二月二日、死刑が宣告された。ところがこのあと、津艤子が女児を出産し、大正九年三月、漆間民夫は東京拘置所へ山田を訪ねて女児を山田家へ入籍させ、実際は漆間家で引き取った。大正十年、山田は処刑された。
 当時「鳥潟博士事件」とも言われており、菊池寛の『結婚街道』は、二人の若い娘の恋愛を描いたもので、別に殺人が出てくるわけではないが、この事件をモデルにしたのではないかと近松秋江が書いていたので、メモしておく次第である。
三、『東京人』一月号に、歌舞伎学者の武井協三と酒井順子の対談「歌舞伎は嫌い?! だけど、面白い。 」が載っているのをのぞいてみた。武井は、歌舞伎研究者だが歌舞伎嫌いを公言していると言っており、私も最近歌舞伎が嫌いになってきているからである。ところが武井は「昨今は現代劇の役者が歌舞伎の世界に入って、大きな名前を襲名したり主役を張ったたりしますが、相撲取りがいきなりサッカー選手になるようなもので『それはあきまへんで』と私は思う」などと言う。「昨今は」と言うと複数いるようだが、そんなのは香川照之市川中車しかいないのだから、こういう言い方は陰湿である。その上、「酒井さんは『女を観る歌舞伎』で、歌舞伎には『一族が連綿として続いていく』ことを見る喜びがあるとお書きになって、皇室を例に出しています。それを読んで『わが意を得たり』という感じでした」などと言っている。
 私が歌舞伎が嫌になったのはその門閥制度にもあるので、しかもそんなものは明治以降のものでしかない。團十郎菊五郎は徳川期から何とか続いているが、幸四郎とか猿之助世襲になったのは明治以降だ。しかも天皇制まで是認していて、こういう前近代的意識の持ち主がなんで歌舞伎が嫌いだったりするのか、げんなりしたものであった。

凍雲篩雪

一、中村光夫文学史では、島崎藤村が『破戒』という本格小説をせっかく書いたのに、田山花袋の「蒲団」が出たために本格小説の芽が摘まれて自然主義私小説全盛が来ることになっているが、近松秋江の全集を読んでいて、これは間違いではないかと思った。
 「蒲団」のあと、花袋は新聞連載で「妻」や「生」といった日常を淡々と描く退屈な小説を発表するが、これが「平面描写」である。むしろこれらは「蒲団」のような、暴露的でストーリー性のある作品とは違うものになっているのである。つまり、『破戒』と「蒲団」の間に断絶があるのではなく、「蒲団」以後に断絶があるのだ。藤村もまた、『春』『家』『新生』などを新聞に連載していくが、『春』は北村透谷を、『家』は藤村の子供が病気で次々に死ぬ話を、『新生』は姪との情事を描いているのに、藤村が抑えた文章で書いているために全体に退屈感がある。
 近松秋江は、自然主義の作家だと思われているが、当時、花袋や島村抱月自然主義派の評論に対して批判的だった。だから秋江の「別れたる妻に送る手紙」や「黒髪」連作は、花袋の『生』や『妻』ではなく、「蒲団」につながっているのだ。「蒲団」は話題になったが、その後で文壇で崇拝されたのは国木田独歩のほうで、独歩の自然描写に影響を受けて、『生』や『春』の文体が形成されたのだと考えるべきだろう。
 大正時代後期になると、私小説批判が始まる。久米正雄によると、これは『中央公論』『新潮』などに載せる小説に、作家が自分と仲間の交友などの身辺雑記を無茶に書きすぎたせいなのだが、その際、「本格小説」の例としてあげられるのは、『アンナ・カレーニナ』など西洋の小説に、せいぜい夏目漱石尾崎紅葉で、ここでどういうわけか有島の『或る女』があがらない。『或る女』は、近代日本の本格小説として三本の指に入るくらいの名作なのだが、長いこと文壇や文藝批評の世界で黙殺されてきた。有島は有名だったが、作品としては「生れ出づる悩み」や「カインの末裔」などの短編ばかりが論及された。『或る女』は、国木田独歩の最初の妻・佐々城信子の醜聞をモデルとしたもので、最後に死んでしまうところは懲罰的だとも言われている。
 『或る女』ははじめ『有島武郎全集』に入れられ、単行本として出たのは、昭和八年の改造文庫が最初だろうか。戦後は新潮文庫岩波文庫に入り、読まれてはきたが、中には、コロンビア大学のポール・アンドラの博士論文『異質の世界』が書かれてから初めて、『或る女』は批評的に取り扱われるようになった、という説すらある。これの邦訳が出たのは一九八二年である。
 自然主義にとってカリスマ的存在だった国木田独歩を捨てた女をモデルとし、独歩も嘲弄的に扱われているこの小説は、大正期の文学者にとって何かタブー的な存在だったのだろうか、とも思われるが、この長編一つを無視したことが、近代日本の文学批評にあるゆがみをもたらしたような気がする。
 ところで二葉亭四迷の『浮雲』について、二葉亭が若いころ叔父のところに寄宿していた際、似たようなことがあったのではないかと私は考えているが、坪内逍遥晩年の『柿の蔕』には「『浮雲』が其事件といひ、人物といひ、悉く空想の産物で、彼れ自身の実生活には、どういふ事実的関係も無かつた」が主人公文三の性格には二葉亭自身が現れている、とある(『逍遥選集別冊』)。しかしだとすると『平凡』の雪江さんのところも、まったく事実がなかったということになってしまい、『浮雲』のお勢と雪江さんではちょっと違うが、同じネタだろうと思う。
 逍遥はここで、嵯峨の屋おむろ・矢崎鎮四郎が、二葉亭は明治二十一年ころ、英文でマルクス資本論』を読んでマルクス主義者だったと書いているのに対する疑義を書いている。この『柿の蔕』後半は、逍遥周辺で昭和六年から逍遥の死んだ九年まで出された『藝術殿』という雑誌(国劇向上会編、四條書房)に連載されている。この雑誌の細目は国会図書館デジタルで見られるが誰か詳しく調べてくれないものか、それともすでにどこかにあるのだろうか。
二、杉本秀太郎という人は、フランス文学者で日本古典にも詳しいが、京都の旧家・杉本家の持主ということでも尊重されていたのだろうと思っていたが、一九九七年ごろ『新潮』に連載された随筆を集めた『まだら文』(新潮社)を読んだら存外面白かった。だがどちらかと言うと、杉本が「それまで読んでいなかった」という、シャーロック・ホームズや歴史・時代小説について書いているのだが、そういうものを読まずに文藝評論家というのはできるのか、と新鮮に感じた。杉本は、ヴァレリーの『テスト氏』はホームズがモデルなのではないかと、ヴァレリーがホームズを読んだ証拠はないので妄想だ、と言いつつ述べているが、ホームズものより『テスト氏』を先に読む人など現代の日本では珍しいだろう。しかし私も若いころ、『テスト氏』がどうこうと言われるので福武文庫で読んでみたが、ちっとも記憶に残っていない。
 あと田宮虎彦の自殺(一九八八年)について書いてあり、田宮は夫人を亡くしてからそのことを嘆くものばかり書いて、ある文藝評論家に「女々しい」と言われ、それでさらに追い詰められて自殺したが、その新聞の追悼文である作家が追い打ちをかけた、とあった。どちらも故人になったと言うが、後者はあるいは「讀賣新聞」で、杉浦明平が、偏屈さを夫人が中和していたのに亡くなったため、酒も飲めず、などと言っているのであろうか。もっとも杉浦はこの時点では生きていた。
四、坂口安吾は「教祖の文学」で小林秀雄を批判したが、その後で小林と対談したりしている。しかし知識人の教祖の系譜というのもあり、明治の高山樗牛夏目漱石、小林、新左翼の教祖・吉本隆明ニューアカ時代の教祖・蓮實重彦柄谷行人、あるいはずっと教祖的な柳田国男折口信夫といるわけだが、最近では井筒俊彦とか中井久夫が、範囲は狭いが教祖的に扱われているようだ。私は教祖をいただくということが嫌いなので、あっこれは教祖だなと思うと批判することにしている、というかなってしまう。瀬戸内寂聴も教祖っぽいのだが、さすがに本物の仏僧だからか、危険な教祖化していない。
 つい最近ふとしたことで、哲学者・日大教授の永井均も教祖化していることが分かった。川上未映子が永井を尊敬しているとか言っていたが、私は常々、若者が哲学に凝るのは、宗教と同じようなもので危険だと感じている。実害はさほどないのだが、哲学の中には、フッサールが「世界観哲学」と呼んだような、学問ではないものがあり、若者の精神に害毒である、少なくとも害毒だと言う人間がいてしかるべきだと思っている。哲学に凝るくらいなら、アイドルに夢中になったり、女を追いかけたりしているほうがまだましだと思えるくらいだ。