岩波文化人

 1980年代、要するに「ニューアカ・ブーム」の当時、「岩波文化人」というのは蔑称だった。山口昌男大江健三郎らが編集委員となって創刊された『へるめす』というのがあって、ここに書く人たちは「山口組」と蔑称で呼ばれ、学生のころ私が「こないだ『へるめす』で」と言ったら、それだけで「へるめす」と苦笑とともにオウム返しした男がいたほどである。
 吉本隆明は「反核アピール」を、岩波が仕組んだものとみて、のちの埴谷雄高との論争でも埴谷を「岩波製のアピールに」と揶揄した。柄谷行人蓮實重彦も、対談で岩波をバカにしていた。
 上野千鶴子小森陽一が、岩波文化人になったのは、思えば当然のなりゆき(とはいえ上野のほうは、高橋哲哉からすれば不快かもしれん)だろうが、柄谷が岩波文化人になってしまったのを、揶揄する人もあまりいない。

 『シナリオ』で佐藤忠男が「童貞放浪記」の評を書いている。佐藤は私の書いたものも読んでいるらしく、映画の中の講師の講義がさえないのを、小谷野がやったらもっと生き生きしてそれではもててしまうからそうしたのだろうと書いている。
 異論があるわけではないのだが、「能弁」であることと、もてることとは必ずしも関係しない。能弁で顔のまずい男もいるが、実は私自身、若いころは、口のうまいやつがもてるのだと思っていた。よく考えたら、高倉健がもてるのだからそれは違うのだが、そのうち、寡黙でもてる男というのがいることに気付いた。ただそういうのは、目立たないから、鈍な私は25歳くらいになるまで気づかなかったのである。