先崎彰容VS安藤礼二

 全然知らずにいたのだが、昨年『新潮』で、安藤礼二が「先崎彰容への公開質問状」(敬称なし)を書いて、翌月先崎が「安藤礼二氏の質問に答える」を書いていた。右翼同士で何を争っているのかと思ったら、先崎が「天皇と人間 : 坂口安吾と和辻哲郎 」で、天皇制廃絶を考えているとして赤坂憲雄と安藤の名を出し、安藤がそれに抗議したということで、先崎は謝罪していた。

 文脈から言って、天皇制のあれこれを認めてその上で廃絶を、ということで、赤坂や安藤が出て来たのだろうが、先崎の頭にはごく単純な廃止論者などはない、ということで、結局議論はこういう「内輪もめ」としてしか起こらないというあたりに時代の闇を見た気がしたよ。(小谷野敦

 

ピンカー『心の仕組み』

 ピンカーの『心の仕組み』をちくま学芸文庫版で読んだ。もとはNHKブックスで全三冊で出ていたものを文庫に組んだものだが、下巻に分からないところが二か所あった。といってもほかが分かったという意味ではなく、明らかに意味が通じていないところ。

340p「女性は夫に何を求めるべきだろうか? 1970年代のバンパー・ステッカーに「男のいない女は、自転車のない魚のようなもの」というのがあった。」

「自転車」が誤訳なのかと思ったが、分からない。

(付記)亀井麻美さんに教えてもらったのだが、これは

A Woman Needs A Man Like A Fish Needs A Bicycle

の訳で、魚にとっての自転車と同じくらい女にとって男は不要だ→男は無用の長物、の意味。だそうです。

466p「笑いのきっかけになる典型的なせりふは、「じゃあまた」と「それはどういうこと?」だった。つまりは例の「その場にいるべきだった」というやつだ。」

 外国のジョークは分からないが、これも分からない。そしてこの本は解説がついていない。

落選小説「薬子」

 『男であることの困難』(1997)を出した時の新聞インタビューでは私はタバコを持っているが、あれは新聞社と私に抗議文をよこした人がいた。60くらいの男性だった。学生が真似したらどうするんだと。

 当時私は大学そばの古書店の店主夫人が美人だったので毎日のように行っていたが、この記事が出たあと、読んでくれたかなと思いつつ行ったらその夫人が出てきて、切り取ってある、来たら読もうと思って、と言ったからぎょっとした。あれはそう明るいことが書いてあるものではないからである。

 そのインタビューに、2001年、強い女と弱い男を描いて小説家デビューなどと将来予想があるが、あれはその当時書いていた藤原薬子の小説で、松本清張賞に短篇として出したが落選した。

桂文楽絶句伝説

 名人と言われた先代桂文楽が、落語の途中に人名を忘れて絶句し、「勉強し直して出直してまいります」と言って高座を降り、そのまま復帰せず死んでしまったことはよく知られている。ところがこの話に際して、「志ん生なら人の名前くらい忘れてもいい加減な名前を言って続けただろう」といつも言われるのだが、私はそれはどうかなあ、と思う。志ん生のフラというのは計算されたもので、本当にいい加減だったわけではないのである。

「源氏物語」のメッセージ

 私は漫画版「風の谷のナウシカ」は単にしっちゃかめっちゃかになった失敗作だと思うが、まあ解読したい人はすればいい。本が売れるのはうらやましいが。

しかし、

dokushojin.com赤坂:例えば『源氏物語』に、隠されたメッセージを読み解こうなんてする人はいませんし、『カラマーゾフの兄弟』にしても同じです。」

 というのはちょっとひっかかった。駒尺喜美に『紫式部のメッセージ』という本があるし。しかし赤坂は裏読みが嫌いだという文脈で言っているからそれはいいのか。

江藤淳と「抜刀隊」

松浦寿輝の『明治の表象空間』に、江藤淳が『南洲残影』で、軍歌「抜刀隊」を、西郷軍側の歌だと勘違いしている、と書いている。しかしこれは事実ではない。単行本8p「警視庁抜刀隊に志願する者も出なかった」とあり、38pでは「薩軍は、兵卒にいたるまで全員が日本刀を持っていた。所謂抜刀隊がこれにほかならない。官軍は、最もこの抜刀隊に悩まされたのである」とあるあたりは完全に間違っている。

 だが「抜刀隊」と題された章では、外山正一が作詞しシャルル・ルルーが作曲した「抜刀隊」の歌詞を掲げ、

 吾は官軍吾が敵は天地入れざる朝敵の

 敵の大将たる者は古今無双の英雄で

 という、まるで西郷を称賛するみたいな歌詞について書かれているので、江藤が勘違いしたと見えなくもないが、「吾は官軍」を誤読するはずはないので、江藤がこの連載をしている際にふと頭脳が勘違いをしたことがあったとしても、勘違いしたまま、ということはない。

小谷野敦

志賀直哉と北條民雄

高山文彦の『火花ー北條民雄の生涯』には、こんなエピソードが書いてある。川端康成が、北條から送ってきた原稿を読んでいると、訪ねて来た志賀直哉が「それは何だい」と訊き、ハンセン病患者のものだと知ると震えあがって逃げて帰ったというのだ。

 だが、この逸話は出典が分からない。それに、志賀は川端より十三歳年長の大先輩で、ふらりと川端を訪ねたりはしない。志賀は、北條の作品が載った雑誌ですら忌避したと言われているが、あるいはこれは高山がそれをもとに作った創作ではないのか、と思う。

小谷野敦