私は小学校三年生の時に茨城県から、埼玉県越谷市谷中町に越してきたのだが、小さな建売住宅だった。それから一年半ほどして、近所に、他の家より明らかに一回り大きい家が建った。それが画家の川上先生の家で、当時40歳くらいだったろうか。専売公社に勤めて、たばこと塩の博物館にいた。ほどなくそこで日曜日に開かれる絵画教室へ私は行くことになったのだが、二階へ上がるとアトリエで、数人の子供が集まって、林檎みたいな静物を水彩で写生するだけだった。別に私は絵が上手くはならなかった。ラジオがかかっていて、日曜昼だからいわゆるDJ番組で、それは大人の世界の香りがした。DJをホモ扱いしてからかっていた時があり、私は「ホモって何だろう」と思った。
 中学生になる頃には行かなくなっていたが、私が小五の時始まった『新八犬伝』を夢中で見ていたら、銀座のギャラリーヤエスというところで辻村ジュサブロー人形展がある、と新聞で知った。だが、その場所が分からない。すると母が、川上先生なら分かるでしょうと言って電話をかけた。74年8月だったが、朝、二階の私と弟の四畳半の部屋から外を見ていると、川上先生が歩いてきた。そしてギャラリーヤエスへ行ったのである。
 高三の時、市内の別のところへ引っ越して、以後先生の消息も聞くことはなかった。先日、専売公社に勤めていたさる人と話していて、ふと川上先生の話をしたら、えっ、川上さんを知ってるんですかと言い、あの人は共産党やったけど、と言い、昨年あたり亡くなったと聞いた。これ、いくら検索しても出ないのである。
 私の母は、五年生の時の担任が日教組だったから、そのせいで私が天皇制反対になったんだと言っていたが、もしかすると私が覚えていないだけで、川上先生もそんなことを言ったのかもしれないと思ったことであった。