田中貴子の「氏」の基準

 『一冊の本』に連載している田中貴子の文章を読んでいると、やたらと人名に「氏」がついている。「笹川種郎氏」「芳賀幸四郎氏」「原勝郎氏」「サイデンステッカー氏」などである。いずれも物故者である。しかし「小林秀雄」「唐木順三」は呼び捨てである。有名人だから? じゃあサイデンステッカーは無名人なのか? 笹川臨風(種郎)など小林よりひと世代も上の物故者でしかも結構有名なのに氏つけなら、何が基準なのか。「学者」なら「氏」づけということらしい。田中が「学者主義者」であるのは何となく知っていたが、何か空恐ろしい気がするのである。
(付記)
ここで説明しているが、
http://blog.goo.ne.jp/ayakashi1154/e/eb7122f13f521b5a6f11bc6c2cd67021
 笹川臨風が人口に膾炙していないなら、三条西実隆だって膾炙していないから「三条西氏」になるのだろうか。村田春海は「村田氏」になるのだろうか。何にせよ、とうの昔に死んだ人に「氏」をつけるのは気持ちが悪い。

 それに、今回はポカも多い。足利義政が屈折した人物だというイメージが大河ドラマ花の乱』などで国民的イメージとなった、とあるが、『花の乱』は大河史上最低の視聴率だったので、国民は足利義政のことなんか知らないのではないかな。
 もう一つ、古代ギリシャ・ローマ文化は中世には忘れられていて、ルネサンス期にイスラームから逆輸入されたとある。村上陽一郎がそう書いているらしく、私もむかし村上に教わって以来長くそう信じていたが、実は間違い。クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン的中世』を来週までに読んでくること。アリストテレスが中世神学の柱だったことも常識である。ただ私も、プラトンは知られていなかった、と思ったが、これもネオ・プラトニストによって伝えられているから、中世は古典文化を忘れていたというのは、ギリシャ劇とか、プラトンの原典およびソクラテスに限定された話でしかない。何しろ田中さんは昔、『性愛の日本中世』で、ジュディス・バトラーを省略するのに、「ジュディス、B」とやった人で、西洋のことになると馬脚を現す。アニェス・bじゃあるまいし。