張競『厨川白村』(ミネルヴァ日本評伝選)

1970年代の本だったと思うが、「中国ではまだ厨川白村は読まれているのに、日本ではまったく忘れられている」という文章を読んだのが、厨川白村という名を知ったはじめであった。

 厨川白村は、1880年生まれの英文学者で、京都帝大英文科で上田敏が死んだあとを受けて教授となり、いくつかの著書をベストセラーにし、「朝日新聞」に連載した『近代の恋愛観』で恋愛至上主義を鼓吹してこれもベストセラーにしたが、翌年1923年の関東大地震の際鎌倉にいて津波に呑まれ、泥水が肺に入って一日後に44歳で死んだ人物である。

 著者の張競さんは1953年上海生まれで私の9つ上だが、東大比較文学の大学院では一学年上で、東北芸術工科大学國學院大學をへて明治大学国際日本学部教授、今は名誉教授になっている。ところで私は博士課程に進んだ1989年に、東大比較文学会の機関誌である『比較文学研究』の合評会で、張さんが、スコットの『アイヴァンホー』の中国語訳を論じた論文を評して、こっぴどく批判したことがある。その時私は、張さんの文学の見方が、社会主義リアリズムの影響を多分にこうむっていることを感じていた。数日後に張さんは印刷した反論文を渡してくれたが、それで別に関係が決裂したわけではなかった。

 その後東大比較では恋愛の研究がはやって、張さんも、厨川白村など日本からの影響で近代中国に恋愛思想が萌芽したことを論じた博士論文を書いて、95年のサントリー学芸賞を、今橋映子さんと一緒に受賞した。授賞式には私も行った。

 さてそれ以来の厨川白村の伝記研究であるが、おそらく白村の本格的伝記は初めてだろう。これは前に『アステイオン』に連載されていて、その時もちょっと疑問を呈したことがあるが、その部分は今回は削除されている。

 白村は京都生まれだが、第三高等学校で学んだあと東京帝大英文科へ進んでいる。張さんは、その当時すでに京都帝大ができていたのに東大へ行ったのは、完全なエリートたるためには東大でなければならなかったから、のように書いているが、これはその当時、京都帝大にはまだ文学部がなかったからである。京大の文学部は1906年の設立で、その時夏目漱石を教授に招こうとしたが、漱石朝日新聞に入るので断り、代わって上田敏幸田露伴が教授になっている。露伴は二年ほどで辞めてしまったが、『厨川白村』には京都にいる露伴も出てくるので、そこを説明すべきだろうと思った。

 また白村の妻・蝶子は美人で、福地桜痴の親戚なのだが、ウィキペディアに桜痴の次女とあるのはいくらなんでも年齢的に無理、桜痴は1840年生まれである。だが張さんが、桜痴の曾孫だとしているのも無理で、これは張さんに調べ直してもらったところ、桜痴の姉の孫に当たり、桜痴は蝶子の大叔父に当たるということがはっきりした(161p)。なお白村には四人の男子がいたが、長男の文夫はのち慶大英文科教授となり、中世英文学をやって江藤淳が博士論文を書く時に指導した。

 白村が東大へ入った時に教えていたのがラフカディオ・ハーンで、すごい人気があったが、三年生になる時にハーンを辞めさせて夏目漱石が後任で来るというのに学生らが猛反対した。先頭に立った小山内薫は、学生総退学などという強硬案を出したが、父親がすでに70歳で、卒業して仕事を得なければならない白村は一人でこれに反対したために孤立したという。漱石が赴任して一年目に不人気だったのも知られているが、白村は一人まじめに授業に出ていたという。

 卒業後はすぐ熊本の第五高等学校教授になり、三年で三高教授になり、上田敏のあとを受けて京大教授になるが、後半になると、「キザ」と呼ばれた白村の、学識を鼻にかけ、高い給料をもらって米騒動などをバカにし、アメリカへ留学してからは西洋かぶれになってそれを見せびらかすとか嫌なところがズバズバ書かれているのは、伝記の書き方としてはいい。

 張さんは大人になってから日本へ来たので、文章が日本風になっていないところがあり、中国語風の「菲薄」という言葉を使ったり、「ロマンス急行に乗ってしまった」とか、ちょっとよく分からない比喩が出てきたりする。後ろのほうで、白村と同席した人物として「鶴屋南北」が出てくるのでぎょっとしたが、これは大正時代に六代目鶴屋南北を名乗っていた食満(けま)南北のことだろう。これも「六代目鶴屋南北を名乗っていた食満南北」としておけば良かった。

 大杉栄関東大地震の時「社会主義者」だというので殺されたとあるが、大杉は「無政府主義者」である。ところでこの本は、日露戦争が起きた時のことを何も書いていないのはちょっと不思議である。200pに「明治大正時代の人たちは大らかで、友だちの家を訪ねる時も、事前に断らない」とあるが、それは電話がないから事前に断れなかったのでは・・・。それとも手紙を出して断るべきだと思ったのだろうか。

 360pに、英国王太子昭和天皇が英国を訪問した返礼として来日したと書いてあるが、これは大正時代のことなので「皇太子裕仁(のちの昭和天皇)」あたりにすべきだろう。

 アメリカ留学中に知り合ったシェルコフという夫人が、日本の代表的小説を英訳する企画をもって来日したが、選択をめぐって馬場孤蝶鈴木三重吉が怒ったという話もあって、これは知らなかったので勉強になったが、シェルコフ夫人の先祖のことまで細々書く必要はなかったのでは、と思った。あと最後に事故で死ぬ時に、大腸癌だったと思える記述があるのだが、そこは突っ込んでいない。

 ともあれ、厨川白村の初の伝記ができたことはめでたい。もっとも、これでもっと白村を読もうという気にはあまりならなかった。