私がキャロル・リードの「第三の男」を観たのは、1982年7月11日の土曜日に、NHKでゴールデンタイムに、世紀の名画を放送という鳴り物入りで放送した時のことで、私は一浪して東大一年生になったばかりの19歳だった。見終わって、面白くないので憮然とした。しかし当時のことだから、世間で名画と言われている映画が分からなかったというので狼狽した。当時よく映画の話をした中学校の時からの友達は、オーソン・ウェルズが出てくるとたちまちジョゼフ・コットンを食っちゃうね、などと言っていたが、それも特に感じなかった。最後に、アリダ・ヴァリが道端で待っているジョゼフ・コットンを完全無視して行ってしまうところも、解説者の話を聞いて意味は分かり、こういうところでぐっと来るべきものなんだろうなと思った。
さて、直井明という先ごろ死去したミステリー評論家の『本棚のスフィンクス』という本を読んでいたら「第三の男」を細かく分析した箇所があったので、アマゾンプライムを見たらあったので、43年ぶりに観てみた。結論から言うと、大して感想は変わらず、別に面白くはなかった。どちらかというと、これまた名曲とされているアントン・カラスの音楽がやたらうるさく感じられた。
だいたい、この視点人物の西部劇作家は、ハリー・ライムと20年来の友達だと言っているが、どういう友達で、前はどういう男に見えていたのかというのがまるで分からない。ペニシリンを水で薄めて流していた犯罪者が、昔はまともな男だったのか。それに西部劇作家だから「意識の流れ」やジョイスが分からないというのも、ずいぶんへちゃこい「作家」だなと私には思える。アリダ・ヴァリにしても、映画がそう見せたがっているほど魅力的でもないし、だいたい犯罪者に愛情を感じる心理が理解できない。
もっとも、これは若い頃から映画ファンに対して抱いている疑問で、なんで映画ファンというのは犯罪者とか殺人鬼とかが好きなのであろうか、といういつもの疑問を感じただけにとどまった。あと「スイス500年の平和が生み出したのは鳩時計だけだ」という、オーソン・ウェルズが入れたという有名なセリフも、今なら「ルソーを生んだだろう」と反論するところだ(ヴォルテールはダメ)。
(小谷野敦)