音楽には物語がある(68)ツァラトゥストラ再評価  「中央公論」8月号

 リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき」は、ニーチェの同題の叙事詩からインスピレーションを得て書かれた交響詩だが、特にその冒頭の部分が有名で、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」の冒頭でも、この部分が使われて、さらにこの部分だけが有名になった。だが、そのために、残りの部分がつまらないように思われて、最初がいいだけ、と思っている人も少なくないようである。

 かく言う私も、長いこと、最初の部分がいいだけで後は退屈だと思ってきた。ただ時に、残りの部分がいいんだ、というようなことを言う人もいたが、どうせ「逆張り」だろうと(当時そういう言葉はなかったが)聞き流してきた。

 だが、最近ふと気になって、改めて虚心に聴いてみると、残りの部分も結構いいのではないか、と思うに至った。ニーチェが晩年、狂気していたことは良く知られているが、実はニーチェは狂気したというニュースのためにブームが起きたという変な人物で、1900年に55歳で肺炎のために死んでいるが、シュトラウスの曲の初演は1896年で、ニーチェは狂気のさなかにあった。

 私はニーチェ女性嫌悪的で自己肥大的な思想というものをむしろ嫌悪しているが、シュトラウスの曲は単純に音楽としていいんじゃないかという気がする。この年になって昔から知っていた曲を見直すということは珍しいことである。

 姫野カオルコの『顔面放談』(集英社)を読んだら、姫野は10代のころ、原節子というのがとても美しい人だと聞かされつつ、実際に観る機会がなかったので、期待に胸躍らせて、初めて「麦秋」でその姿を見た時、失望した、という。私は高校1年の時、学園祭で上演されていた黒澤明の「白痴」で初めて原節子を見て、これが「美」? と思ったことがある。ところが姫野は、60を過ぎた最近になって改めて「麦秋」を観たら、もうすぐ失われてしまうものの姿が写しとられているのを感じて涙が出た、と書いていた。それは原節子が美しいかどうかとはとりあえず関係がないのだが、私は25歳ころに「麦秋」を観て、名作だから感動しなければいけないという自己催眠と、当時ノイローゼになっていたこともあって涙をぼろぼろこぼしたが、のちにあれは偽りの涙だったと気づき、数年前に改めて観たが、別に何とも感じなかった。私は過去美化が嫌いなのでそういう風には思わないのか、あるいは私は自分の過去へのノスタルジーはあるが、戦後の鎌倉に住んでいる中産階級に別に共感を感じないだけかもしれない。(ところで姫野のこの本は、長谷川一夫ちあきなおみが似ているとか、山中伸弥タマラ・ド・レンピッカ作『ピエール・ド・モンターの肖像』がそっくりだとかいう「意外なそっくりさん」物件が満載で実に楽しい本である。

 さてほかに、見直した音楽というのはないかと思って考えていた時、ヘンデルの「メサイア」の全曲を聴いたら、「ハレルヤ」のところ以外がかなり退屈だった。映画「ドクトル・ジバゴ」の「ララのテーマ」について、あれはいいんじゃないかという気がした。私は「ドクトル・ジバゴ」という小説そのものを、結構くだらない通俗小説だと思っていて、映画についてもそうなのだが、音楽だけを虚心に聴くと結構いいんじゃないかと思えるものがある。

 あとシルベスター・スタローンの映画「ロッキー」は、若い頃一度観てそれほどとも思わなかったが、数年前観たら意外に良くて、それは社会の下層に暮らしているロッキーの状態に感情移入できたからで、それは東大生だった私には分からなかったろう。あの有名なロッキーのテーマが、実は映画では一度しか使われていないことにも気づいた。

 音楽のほうはこんな風に昔はさほどとも思わなかったものを再評価できるが、小説や映画となると、これまで再読したり再見したりして評価が上がったという例がないので、あまりやる気にならないが、もしかしたらということもあるので、徳田秋声をもう一度読んでみるとかやってみるか。

小谷野敦