音楽には物語がある(51)ブーニンの今昔 「中央公論」三月号

 スタニスラフ・ブーニンが、この夏、住居がある八ヶ岳山麓と東京で、9年ぶりの演奏会を開いたというので、その様子を紹介したNHK/BSプレミアムの番組を観た(「天才ピアニスト・ブーニン 9年の空白を越えて」)。

 9年というのは、主としてブーニンが「石灰沈着性腱板炎」で左肩を痛め、そのリハビリをしていたためだが、4年前にはさらに左の足首を骨折し、持病の糖尿病のため骨折した部分が壊死する危険が大きいというので、脚のその箇所を切ってつなげるという大手術をしたためもあり、そのため脚は左だけ短くなり、厚底の靴を履いて歩いている状態だ。ブーニンは56歳になる。演奏したのも、シューマンの軽いものが中心で、東京での公演のアンコールでショパンの小品が出たくらい、ダイナミックな曲はまだ演奏できないらしい。

 ブーニンが一躍有名になったのは、1985年に、ショパン・コンクールで19歳で優勝しただけでなく、その激しい演奏ぶりが月曜日の夜の「NHK特集」で放送されたからで、日本で特にブーニン人気が高かったのはそのせいで、いったいなぜ「NHK特集」がそんなに観られたのかと後から不思議に思ったが、月曜日の八時は民放では「大岡越前」や「ザ・ベストテン」があったし、それほどNHKの視聴率が高かったとも思えず、口コミで広がったものであろうか。

 当時、音楽評論家の吉田秀和が、ブーニンを「果たしてアンファン・テリブル(恐るべき子供)なのかアンファン・ギャテ(甘やかされた子供)なのか」などと評していたが、優勝後のブーニンは数年で西側へ亡命し、特に日本での人気が高かったこともあり、当人は日本の聴衆が気に入ったと言っており、ジャーナリストの日本人女性と結婚し、日本を拠点に活動してきた。

 しかし、ホロヴィッツポリーニのような「大ピアニスト」にはなれなかったと言うべきで、むしろヴァン・クライバーンに似た感じの、あとでしぼんだ感じすらするが、ブーニンの場合は本人の責任というより、時代がすでに「スター演奏家の時代」ではなくなっていたからだろう。カラヤンバーンスタインのようなスター演奏家の時代は、CDができYouTubeができたこととはあまり関係なく、演奏のレベルが一定の高さになり、新進の演奏家なら誰でもそれくらいは演奏するようになると終わった。あとは、数奇な人生を売りものにする演奏家などがスターになる時代になった。

 そういえば、旧ソ連出身のブーニンは、ウクライナ戦争をどう思っているのかと思ったが、そういう話は出なかった。ブーニンは祖父の代からのピアニストで、祖父のネイガウスウクライナ出身の人物だった。

 ブーニンブームの当時、さかしらな評論が、ああいう眼鏡をかけた秀才タイプが、女性はけっこう好きなのである、などと書いていたが、あれから37年、何を思うかブーニンだが、日本人妻をもつ人としては、演奏後の「アリガトゴザイマシタ」以外には日本語は話さず、ずっとドイツ語で、字幕がついたり妻が通訳したりしていた。むやみと片言の日本語を使うべきではないという判断は正しいだろう。

NHK特集」が放送された85年12月は、私はエドワード・オルビーというアメリカの劇作家についての卒論を提出し、翌年急死してしまったシェイクスピア学者の中野里皓史先生に読んでもらうところだった。翌年になるとスペースシャトルが爆発し、4月には岡田有希子が自殺し、大学院入試に落ちた私は一浪して比較文学の院を受けようと考え始めていた。あれから37年たったのだ。