「平家物語」と勧善懲悪(1)


                         小谷野敦

 高校三年生の時、私は川端康成を耽読していたから、川端が『平家物語』を評価していないと知った時、ほっとしたのを覚えている。私も『平家物語』が苦手だったからである。
 私が初めて『平家物語』に触れたのは、小学校五年生のころ、少年少女講談社文庫という、こんな名ながら菊判ハードカヴァーの子供向けリライトによってであった。著者は高野正巳で、一九五三年にポプラ社から出たものを、おそらく前年(一九七三)の大河ドラマ「新・平家物語」の放送に合わせて刊行したものだろう。表紙には、壇ノ浦で二人の武者を両脇に抱え、これから入水しようとしている能登守教経が荒々しいタッチで描かれていた。
 『平家物語』の現物を読んだのは高校二年の時、角川文庫の二冊本によってであったが、特に現代語訳が必要でもない分かりやすい古文でスラスラと読んだが、さほど名作だという感じを受けなかった。むしろ、変な書物だという気持ちがあった。冒頭近くには、祇王・祇女、仏御前の逸話が置かれているが、これが短篇として見てもさほど優れているとは思えず、その妙な気分のまま最後まで行ってしまった。そのころ、芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を読んだら、これは元ネタを知らないと分からない短篇なのに、その元ネタが『平家物語』には載っておらず、どこを探せばあるのか分からなくて困惑した。「袈裟と盛遠」の話は落語の「袈裟御前」で語られているので分かったが、載っているのは延慶本の『平家物語』か、『源平盛衰記』である。
 「袈裟と盛遠」の話は、私は好きである。袈裟が実際には身を任せた上で、さらに会い続けようとする盛遠に困惑して命を投げ出すという奇譚ぶりがいい。その逸話を削除してしまう覚一本『平家物語』とは、何という愚かなものだろうかと思った。
 文章をほめて、韻律はないが日本で最も叙事詩に近いものだと言う人がいるが、私はそうも思わなかった。元来は琵琶法師が長々と伸ばして朗唱するもので、それを活字で黙読してもさして意味はないだろうし、かといって琵琶法師の朗唱を聴きたいとも思わない。
  横井也有『鶉衣』に、

 平家といふもの有りて、まづは琵琶法師の家にのみ伝はれども、はやりうたのはなやかなるにも似ず、せつきやうの哀なるにも似ず、舞のすたれたるにも似ず、浄るりのあらたなるにも似ず、すかぬ人は甚だすかず、すく人はことにすけり。

 とあり、近世においても嫌う人がいたことが分かり、むしろ近代人が好きすぎるのだろう。
 杉本秀太郎は、「「祇王」の物語は「平家」全体のなかで、とび抜けて長いが、幾百年にわたり、聞く人、読む人の目がしらを熱くさせ、涙をさそってきたし、それはいまも変りがない」と書いているが、これはある種、杉本の想像に過ぎず、杉本自身がそのように感じるということのほかは、証拠はないのである。フランス文学者で日本の古典にも詳しい杉本の『平家物語』は、この物語に阿片のように没入した人間のうわ言のような文章で長々と書かれている。この著作は講談社のPR誌『本』に七年ほど、安野光雅の挿画を伴って連載され、大仏次郎賞を受賞し、のち講談社学術文庫に入ったが、むしろ安野の画集のほうが人気は高く、杉本の著は広く愛読されているとはいえない。
 私は『平家』を、高校生の時から三十年近く、悪事を行った平家が滅びる勧善懲悪物語だと思っていたので、それから三十年ほどして、大河ドラマ義経』が壇ノ浦の戦いにさしかかったところで、友人の大塚ひかりさんが「さあ泣こう」と言っているのを見て、あっ、これは滅んでいく平家がかわいそうで泣く話なのか、と気づいたくらいなのである。
 『平家』の変なところは、まさにそこにある。清盛は悪事を働いたとされ、「あっち死に」をする、そしてその子供や一族がその報いで滅ぼされ、清盛によって殺された源氏の一族が復讐するという因果応報、勧善懲悪の物語として読むと、重衡はともかく、別に悪いことはしていないが、清盛がいたから宮廷の高官になっていた知盛や維盛や敦盛も滅びていく。それがかわいそうなのか、ということが私の中でまとまらないのである。
 確かに『平家』の主題は冒頭にある「奢れる者は久しからず」であり「諸行無常」なのだが、私はそれを勧善懲悪の意にとって、平家の公達がかわいそうだという発想がなかったのである。そう知ってからも、かわいそうだという気持ちは起こらない。
 木下順二は『古典を読む 平家物語』で、冒頭の文章について「誰でもがいう美しい無常観(または感)」と読んでいる。杉本も木下も、『平家』に関わると人は「誰もが」と言うのは不思議だが、「美しい」とあるのには、またしても、ああそうなのかと私は恐れ入る。太宰治は『右大臣実朝』で、実朝に「平家ハ、アカルイ」「アカルサハ、滅ビの相デアラウカ」と言わせているが、こうして見ると、むしろ「滅びは美しい」のである。私はこういう三島由紀夫的な発想が極めて嫌いであって、三島の没後五十年というのであちこちで三島の崇拝者があれこれ言うのが実に嫌であった。
 たとえば谷崎潤一郎の処女作は、戯曲「誕生」である。藤原道長の娘彰子が誕生し、のち中宮となって藤原氏の栄華をもたらす、その端緒を描いているのだが、典拠は『栄華物語』で、東大国文科の学生だった谷崎はこの物語を好んだ。それはいかにも谷崎らしい好みで、谷崎は「滅びの美」などに関心はなかった。『細雪』は、あとから、これから滅びてゆく美だとはいえるが、谷崎自身はそのように考えて書いてはいない。藤原氏が次第に力を増し権力を握ってゆく過程を描いた『栄華物語』には、「滅び」はない。藤原氏はついに滅びなかった種族で、それを好んだ谷崎の感覚は、私には十分共感できる。むしろ「滅びの美」などと言う人間への嫌悪を、おそらく私と谷崎とは共有している。
 木下順二はさらに言う。

 いずれにせよ、人はどうせ死んで行くはかないものであるには違いないが、しかし、良い人にせよ悪い人にせよ、必死に生きたそういう人びとの生きかたを、また、そういう生きかたがからまりあってつくりだされた歴史というものを、私たちはよく見てみようではないか。それを描こう、という表明が、この序章の持つもう一つのテーマだと私には思われる。

 私には木下のこの言葉が、たとえば現代の無名の労働者たちを描いたものについて言われるなら納得がいくのだが、平家に出てくる、政治の世界で成りあがった者たちについて言われると、はなはだ違和感を覚えざるをえない。木下はシェイクスピアの、ばら戦争を描いた戯曲を翻訳し編纂しているが、それらもまた、政治の中枢にいた王族たちの話である。私の感覚には、そういう人間たちを「必死に生きた人びと」とはとらええない。
 杉本秀太郎は、京都の中心の古い商家の建物を継いだ人間であり、井上章一の『京都ぎらい』では、洛中の人間として洛外の人間に対する差別意識を漏らす人間として描かれている。杉本が、平安時代末期の貴族らに共感するのはかなりよく分かるのだが、「左翼」のはずの木下が、杉本と同じ意識を持っているとしたら、それはある意味、木下順二の正体とも言うべき論へつながっていく可能性すらある。
 角田文衛に『待賢門院璋子の生涯』という本があり、一部で大変人気がある。藤原璋子は、大変美しい女人で、白河法皇の養女だったが、その孫の鳥羽院に入内した。だが白河院との関係はその後も続いて、鳥羽院の子として璋子が生んだのちの崇徳院は、実は白河院の子であったと、角田が璋子の月経周期から割り出したので有名な人である。渡辺淳一はこの話を小説にしたし、私もうまく書けなかったが小説にしたことがある。このことが、保元の乱の遠因になったとされており、私には『平家』よりこの話のほうがよほどエロティックで面白かった。
 『平家』には、先に触れた袈裟と盛遠の話がないことも含めて、ひどくエロティシズムが欠如している。小学校高学年あたりで読ませても差し支えない、というところがある。おそらく『平家』が好きな人は、むしろエロティックな物語を嫌忌する人ではなかろうか。
 吉田精一が第一高等学校で、保守派の教授・沼波瓊音の『平家物語』の講義を聴いていたら、沼波が芥川の「袈裟と盛遠」を批判した、という話は、新潮文庫の『羅生門』の解説に書いてあるからよく知られているだろう。「袈裟と盛遠」の発表は大正七年(一九一八)で、吉田は一九〇六年生まれだから、発表当時の話ではない。吉田は、しかし袈裟と盛遠が契ったことは『源平盛衰記』に書いてあるのに、と抗弁しているが、沼波としては、せっかく『平家』から淫らな物語を削ったのに、という意識があったのだろう。沼波は芥川の十四歳年上だが、芥川が自殺する六日前に五十歳で死んでいる。
  『平家』が、女性嫌悪的な文藝だということを、私は言おうとしているのだが、エロティックなところがないから、ではひどいだろう。ではこう考えたらどうか。清盛は、忠盛の子ではなく、白河院の愛妾・祇園女御の妹が生んだ白河院落胤と言われている。要するに血統に乱れがあり、それが皇統にまで及んでいる。それを、清和源氏嫡流の頼朝が討つ、という、女による血の乱れを正す文藝として『平家』があるという考え方である。
  しかし、それなら『三国志演義』も『水滸伝』も女はあまり出てこないではないかと言われるだろう。対して『南総里見八犬伝』はかなり女が重要な役割を果たすが、かつて私自身が論じたとおり女性嫌悪が船虫の殺戮によってあらわされており、一方伏姫や浜路は聖女として描かれている。この点馬琴のほうは西洋的だとも言える。
 清盛の長子・重盛は、史実では清盛以上に悪人だったのだが、『平家』では善人として描かれ、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝たらんと欲すれば忠ならず」と苦悩している。薩摩守忠度歌人でもあり、「青葉の笛」という唱歌では、敦盛と忠度が哀れみをもって歌われているのだが、清盛のおかげでいい思いをしたんじゃないかという意識のほうが私には強いのである。
 たとえばチェーホフの「桜の園」は「喜劇」と銘打たれてはいるが、普通はラネーフスカヤ夫人を主人公として、没落していく貴族階級を哀れみつつ鑑賞する芝居らしいが、私は、新劇の観客というのはみんなブルジョワだったのかな、と思ってしまう。私なら新興階級のロパーヒンのほうに感情移入してしまい、ざまをみろ地主貴族め、と思ってしまう。太宰治の『斜陽』も、えっ、特権階級華族の没落に同情しなきゃいけないの? と思ってしまう。ジャン・ルノワールの映画「大いなる幻影」は、第一次世界大戦で貴族が没落していくさまを描いたというが、私にはそれはざまをみろの対象でしかない。
 ところが、日本の文化人は『平家物語』が大好きである。能楽のうち「修羅能」の多くは、『平家』を本説とし、戦で死んだ武将の亡霊が出てくるし、浄瑠璃は『義経千本桜』や『ひらかな盛衰記』『一谷嫩軍記』など『平家』を主題にしたものが多く、『千本桜』など、義経は脇役に過ぎず、知盛や維盛が生きていて活躍する。歌舞伎でも「熊谷陣屋」は繰り返し上演されている。アニメ演出家の高畑勲は、「かぐや姫の物語」が完成したあと、「次は『平家物語』をやる」と言ったという。これは実現しなかったわけだが、私はこれを聞いてアッと思った。しかし、この実は難物である『平家』を高畑勲がどう演出するのか見たかった気もする。とはいえ高畑は教育者だった父親譲りの教育的なアニメを作ってしまう演出家だったから、先に触れた『平家』の、エロティックではないところが気に入っていたのだろう。    (つづく)