音楽には物語がある(33)お富さん 「中央公論」2021年8月号

 一九五四年といえば昭和二十九年、「君の名は」と「ゴジラ」の年である。前年、テレビ放送は始まっていたが、一般家庭に普及するのはまだまだで、ラジオ放送で北村寿夫作の「新諸国物語」の一つ「笛吹童子」がヒットし、貸本マンガはその黎明期だった。子供の娯楽はまだ紙芝居が主流だったろう。

この年ヒットした流行歌が、春日八郎の「お富さん」である。春日はその年三十歳、辛酸をなめたのち、前年「赤いランプの終列車」でデビューし五十万枚のヒットとなり、青木光一三浦洸一と並ぶ若手三羽烏の一人とされた。「お富さん」は、幕末期の三代瀬川如皐作の歌舞伎「與話情浮名横櫛」の一場「切られ与三」(「源氏店(玄冶店)」)を流行歌にしたもので、山崎正の作詞、渡久地政信の作曲で、これもヒットした。私は若いころ、そんな歌がヒットしたことを知って、当時の大衆は歌舞伎の演目も知っていたのかとその教養に驚いたものだが、どうもそういうものでもなかったらしい。

 「與話情浮名横櫛」が岩波文庫に入ったのは一九五八年で、どうやら「お富さん」がヒットしたから入れたらしい。ところが、新聞記事で調べると、事態は「教養がある」どころではなく、「低俗な流行歌を子供まで歌っている」と社会問題化していたのだ。この年はもう一つ、江利チエミが歌う「ウスクダラ」もヒットしていて、この二曲が、子供が意味も分からずに歌っているヒット曲としてやり玉に上っていたのだ。

 考えてみると「粋な黒塀見越しの松に」というのは「お妾さん」だし、当時の健全な中産家庭で、子供に「ねえ粋な黒塀ってなァに」と訊かれたら困っただろう。「切られ与三」の上演は、その年にはないが、前年までは市川海老蔵(のちの十一代目團十郎)と七代目尾上梅幸のコンビで上演されていた。ヒットにあやかって上演しようかという案もあったが、「お富さんへ」の場面へ来たらきっと客席から笑いが起きるというのでやめにしたという。もっとも翌五五年一月には、同じコンビで新橋演舞場で上演されている(蝙蝠安は二代目尾上松緑)。してみるとその当時は、歌舞伎というのは必ずしも

「教養」ではなくて、お妾さんが出てきたりする、子供に見せてはいけない低俗な娯楽の地位を脱していなかったのかもしれず、「お富さん」のヒットというのも、単に調子がいいのと、薄らぼんやり持っていた知識とでヒットしただけなのではなかろうか。 山口百恵の「としごろ」や、山本リンダの「狙いうち」以後の曲、ピンク・レディーの曲を子供たちが歌うのを見たあとでは、この程度はどうってことはない。

 「ウスクダラ」は、トルコ民謡がもとで、一九五三年に米国のアーサー・キットという女性歌手が歌ったのがはじまりで、五四年八月に、当時美空ひばりを入れて「三人娘」と呼ばれた雪村いづみが「ウシュカ・ダラ」、江利チエミが「ウスクダラ」を歌い、もっぱら江利のものがヒットした。私は母が江利チエミが好きだったので、よく歌っていたので覚えている。トルコ西部にあるユスキュダルという町が舞台で、キットの元歌は、そこを旅する女とその秘書の話で、雪村のはそれとは関係なく祭りの様子を歌っているが、江利チエミは、「ウスクダラ・ギデリッケン・アウダダビリヤン・ブー」と聞こえるトルコ語を交えながら、ウスクダラでは美人の女に男が奴隷のように仕えており、それを見物に行った男が、俺の腕前で女をトリコにしてみせると張り切るが、男のほうがトリコになったというたわいない歌である。

 これもその「色事」部分が、子供が歌うのは不適切だと見なされたらしい。当時私の父は二十一歳、母は十五歳だったが、そういう話はとんと聞いたことがなかった。

 

お富さん

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