水村美苗の「見合いか恋愛か」という漱石『行人』論は、文学研究者の間でやたら人気が高く、最近もある著作の中で(藤森清『三四郎の駅弁』)唐突に出くわしたので改めて書いておくがあれは間違いである。
水村は『行人』の一郎が、見合いで結婚したのに妻に恋愛を求めていると言い、恋愛結婚ではないのだから相手を恋する義務はない、と言うのだが、恋愛結婚だってそんな義務はない。ないどころか、恋愛を基礎として結婚する以上は恋愛が消えたら離婚すべきかという議論さえ大正時代にはあり、与謝野晶子なんかは恋愛なき結婚は不義であるとまで言い、じゃあ自分はどうしていたかといえば生涯与謝野鉄幹(寛)に恋していて、自分も恋されていると思い込んでいたのである。
水村はのち『母の遺産』で、恋愛結婚したらしい夫が浮気する様を描いて、自らこのテーゼを否定するが、日本近代文学者から英文学者まで、水村テーゼはやたらと人気があり、私は「?」と思っていた。しかしなんでこんな杜撰な論を提示してしまったのだろうと思うと、水村という人は、これを書いたら受ける、というものが書ける人らしく、「日本語が滅びるとき」だって、私は一読して焦点のボケた本だなと思っていたら単行本になったらベストセラーになり小林秀雄賞までとったのだから、やや魔女的なところがある。あるいは純文学界の山崎豊子とでも言おうか。