「アメリカ人」の謎

「ロデリック・ハドソン」のレビューを書いていて改めて『アメリカ人』というのは何だったんだろうと思った。

 私は英文科へ入ってすぐ、アメリカ文学専攻の渡辺利雄先生の授業で、ジェイムズの『アメリカ人』を読まされたのだが、これがちんぷんかんぷんだった。当時河出の世界文学全集に西川正身の訳が入っており、すぐ買って読んだのである。アメリカ人の若い富豪で独身のニューマンがヨーロッパへ渡って貴族のお嬢さんと知り合い婚約するのだがそれが突然破棄されるという話で、ジェイムズ特有のもって回った表現をさっ引いても、なんだこれはという小説だった。

 当時ジェイムズといえば、文庫で読めたのは『ねじの回転』と『デイジー・ミラー』くらいで、『ねじの回転』のわけの分からなさは盛んに議論になっている。『デイジー・ミラー』は、斎藤勇(たけし)が喜劇としているという驚くべき事実もある。それから私はジェイムズの小説はだいぶ読んで、『鳩の翼』が一番面白かったが、『使者たち』も『ロデリック・ハドソン』も『カサマシマ公爵夫人』も『ボストニアンズ』も面白かった。『聖なる泉』は、なんじゃこりゃあという代物だが、そういうのもある。『黄金の盃』は中途挫折しているし、『ある婦人の肖像』に何だかあきたりないものを感じるが、『アメリカ人』ほどに、何だかわけが分からないという感じはない。

 当時渡辺先生が読ませてくれた批評では、婚約した貴族令嬢は、実は侍女が生んだ私生児だったので婚約破棄されたというのもあったが、さしたる証拠もなく、レポートでもそう書いたら『英語青年』で渡辺先生が引用して、私の文章が活字になった最初となったりした。

 『ロデリック・ハドソン』が書けるんだからジェイムズには十分な実力があり、何かの実験のために『アメリカ人』を書いたのだろうと考えるほかない。