音楽には物語がある(10)女はバカがいい? 中央公論2019年12月

 歌謡曲には恋愛の歌が多いが、かつてそこで歌われていた女性観には、今では通用しないだろうな、というものも少なくない。伊藤咲子の「ひまわり娘」(阿久悠作詞、一九七四)は、女がひまわりで男が太陽だし、石川ひとみの「くるみ割り人形」(三浦徳子作詞、一九七八)などは、女が人形で男があやつる人である。もっともこれはタイトルが先に決まって苦し紛れだったんじゃないかと思うが・・・。
 一九九二年にカナダ留学から帰った私は、留学中に知った辛島美登里の曲をいろいろ聴いていた。二年前に「サイレント・イヴ」がヒットして、俳人黛まどかは「辛島聴く」を冬の季語にしていた。私はどちらかというと辛島の見た目、知的でぽってりした感じにひかれていたようだ。
 そんな中に「星とワインとあなた」という歌があり、都会の片隅にいるカップルの幸福な様子を女の視点で描いているのだが、男は元は天文学者になりたかったが挫折したようで、女は男に、天文学の話をしてほしいと言い、「難しくても、分かったふりであなたの顔」を見つめていたいと言うのである。私はこういう、女はバカでいい、というような男女観が好きではない。さらに、都会の片隅から二人で「何億光年先の未来」を見るとも言うのだが、「光年」は距離の単位であって時間の単位ではない。それに天文学者は望遠鏡で何億年過去の光を見ているのだ。
 しかしまあ、恋人の男女二人が都会の片隅で一緒の夜を過ごして多幸感でこんな妄想にふけるというのも、分からないではない。
 それにひきかえ、松田聖子の「ハートにRock」(一九八三)は攻撃的だ。語り手の女の子は、ボーイフレンドにクラシックのコンサートに誘われたのが不満で、バッハは退屈で眠ってしまうとか、彼氏のしゃべり方が哲学の先生みたいで(ということはこの女子は大学生?)辞書がなきゃデートもできない、とか権威や古典を攻撃しまくる。皮肉にもこの年はニューアカデミズムのブームが来た年だが、別にクラシックたってバッハばかりではない、チャイコフスキーだってプロコフィエフだってあるし、クラシックのコンサートだからといって正装して行かなければならないなんてことはないのだ。
 もちろん、ここでクラシックの対にあるのはロックだ。しかし私にはさほどクラシックが権威でロックは反権威だという感じはしない。
 しかし、辛島の女より聖子の女のほうが主体性はあると言えるだろう。もっと恐ろしいのは戸川純の「ヘリクツBOY」(一九八五)で、これは戸川純・京子姉妹の作詞だが、当時はやりのニューアカ青年でもからかったのか、男の口説き文句が「方法論」で成り立っても実践的でないとか唯心的(?)だとか「現象として」私のことをとらえきれないパラノイアックとか、それっぽい言葉を連発して、その当時、ニューアカかぶれして女にはもてない青年だった私たちを愕然とさせたものだ。
 歌謡曲の世界では、もんたよしのりの「ダンシングオールナイト」に「言葉にすれば、嘘に染まる」的な思想があって、金井美恵子が批判していたことがあった。「ヘリクツBOY」には「女の子はキスが大好き」という歌詞があって、これは間違えられると「ごちゃごちゃ言ってないで押し倒しちゃえばいいんだよ」的な発想になりかねない。「恋愛においては言葉よりカラダだ」的な思想はD・H・ロレンスなどにあるが、まあ言葉もカラダも使いようでは暴力的にもなるので、どっちがいいというものでもあるまいが、まあ人間なんだから最初は言葉であろう。