音楽には物語がある(8)流浪の民 中央公論2019年8月

 小学校六年生の時、どうも私はけっこう幸せだったらしい。三年生で埼玉県へ引っ越してきて、二年ほどはなじめなかったのか、友達も一人しかいなかったが、五年生になってから土地に慣れたのか、友達も増えた。
 そんな時、音楽の時間に聴いたのが、シューマンの「流浪の民」で、これには感銘を受けた。だからこの日本語訳によるこの曲を聴くと、その記憶が、雨の日の学校とか、南洋一郎による「怪盗ルパン」を読んでいた記憶などと一緒に蘇ってくるのである。
 エマヌエル・ガイベルの詩に曲をつけたもので、日本語訳詞は石倉小三郎により、東大独文科の学生時代にやったものだが、ベートーヴェンの第九交響曲第四楽章の翻訳などはあまり使われなくなったのに対し、「流浪の民」だけは、ドイツ語で聴くより石倉訳で聴いたほうがいいというくらいの名訳である。私は概してシューマンが好きではないのだが、これは石倉訳によって名曲になった。
 「流浪の民」はジプシーのことである。今ではジプシーは差別語だというので「ロマ」と言われるが、ツィゴイネルワイゼンのツィゴイナーもジプシーのことで、だとすると曲名も変えなければならないのか。「ジプシー男爵」というオペラもある。白水社文庫クセジュは「ジプシー」の題で出ている。
 もっとも石倉による「流浪の民」の訳詞には「ジプシー」の語は出てこない。古語を巧みに用いつつ、ジプシーを美化する典型的なロマン主義の詩である。「めぐし乙女舞い出でつ」とか「ひんがしの空」などという言い回しに、小学生の私はしびれた。「南の国乞うるあり」は、ジプシーがエジプト出身だという説によるが、今ではこの説は否定されている。
 ところで、私が高校二年の時に始まり三年間続いたNHKの人形劇「プリンプリン物語」が私は好きだったのだが、視聴率のせいか次第に低年齢層向けになってしまった。十年以上前に、その後半部分が再放送され、DVDにもなったのだが、前半はビデオが残っていなかったからだ。しかるに人形作家の友永詔三のところで前半も見つかり、二年前に再放送されて楽しみに観ていたのだが、年末になって、まだオサラムームー編の途中だというのに打ち切られてしまった。
 実はオサラムームー編のあとにはアクタ共和国編なのだが、同国の独裁者ルチ将軍は十五年前に革命で国王夫妻を処刑し、その子供の兄ベベルと妹マノンは、ジプシーを装ってルチ将軍暗殺を狙っており、劇中で「ジプシーの歌」も歌うのだが、この「ジプシー」を放送するのをNHKが忌避したのだろう。アクタ共和国編総集編というのがDVDになっているのだが、そこではジプシーの歌の「流浪の民、われらジプシー」という部分だけは見事にカットされているから、この推定は間違いない。
 一時期、テレビ放送で、放送禁止用語は音を消すとか「ピー」を入れるなどの措置がなされていたが、今では最後に「この番組には配慮すべき用語が使われておりますが作品の歴史的価値に鑑み、そのまま放送させていただきます」と入れて処理するのが一般的である。不自然にオサラムームー編の途中で切るのはひどいし、NHKにはぜひその方向で続きも再放送してほしい。それが無理なら前半部分の完全版DVDを出してほしい。DVDなら放送より規制はゆるいはずだ。放送禁止歌だった「ヨイトマケの歌」を紅白歌合戦美輪明宏に二年にわたって歌わせたNHKにはもっと期待したい。
 しかし私は、日本人には(いや西洋人もそうかもしれないが)差別語だという意識すらない「ジプシー」や「エスキモー」を自動的に言い換えればいいという「言葉狩り」とかポリコレには疑問がある。