「あるいは裏切りという名の犬」と男の子っぽさ

 フレンチ・ノワールの映画「あるいは裏切りという名の犬」を観たのは、「おんな城主直虎」のうちのサブタイトル「あるいは裏切りという名の鶴」の元ネタだったからで、映画の原題は「オルフェーヴル河岸36番地」なので、邦題は筒井康隆の「あるいは酒でいっぱいの海」からとったか、別の源泉があるのか知らない。

 パリ警視庁内で次の所長の地位を争う二人の確執を描いているのだが、実際に所長になるのがジェラール・ドパルデューで、こっちが悪者風に描かれていて最後は殺されてしまうのだが、もう片方のダニエル・オートゥイユも結構なクズにしか見えず、いろいろ変なところもあって嫌な映画だった。

 オートゥイユのほうの妻は、途中で犯人と接触しているところをドパルデューに車で追走され、車が横転して死んでしまうのだが、ドパルデューはしたい(?)に銃弾を撃ち込んで、犯人が射殺したことにする。かつて二人はこの女をめぐって争ったらしいのだが、そのことは詳細には描かれない。そのことも含めて、女性嫌悪的な雰囲気すらあった。

 ところで池波正太郎はフレンチ・ノワールが好きだったのだが、その作品には男性中心的で男の子が喜ぶ的な要素が強い。私は日本の時代小説作家の中で池波が好きになれない。というか嫌いである。往年の「角川映画」にも、「男の子」っぽい、荒っぽい生き方や女性嫌悪的なところがあったと思う。

 たとえば「007」は、男の子っぽくはあるが、ジェームス・ボンドがすぐに美女と寝てしまうことで、女性嫌悪は、まああるのかもしれないが露骨には出ていないというふしがあった。