書評・寺田詩麻『明治・大正東京の歌舞伎興行』 週刊読書人2019年8月

日本演劇学会河竹賞奨励賞受賞)
 歌舞伎に限らず、演劇の研究は、演目や俳優を中心にするのが普通である。だが最近は「興行」に光が当てられつつあり、神山彰編『興行とパトロン』(森話社)や中川右介『松竹と東宝』(光文社新書)などが刊行されている。とはいえ、近代の通史的な歌舞伎の本は、おのずと興行の面にも触れて来たというのが実態である。
 本書は、守屋毅『近世芸能興行史の研究』のあとを継ぐとして、明治・大正期の興行に関する学術論文の集成である。新富座の座元であった守田勘弥市村座を経営し田村将軍と呼ばれた田村成義白井松次郎大谷竹次郎の松竹などを中心に、帝国劇場が松竹に貸与されるまでを描いている。
 本書の特徴は、従来の歌舞伎史の記述を訴訟文書などの公文書で裏書きしていく手法にあるだろう。インターネットで公開されているデータベースなどを駆使しているところに新しい研究手法を感じさせる。近年は歌舞伎研究でも公文書などを重視するようになり、歴史学の手法に近づいているようだ。校閲もしっかりしており三七五頁の「しかしそれは置いて」は「措いて」ではないかと思ったくらいでほかにミスはない。
 学術書は目新しいものを研究するわけではないのだが、全体に従来の歌舞伎史を裏づけしている以上のものがあまり見当たらない。興行は大きな借財を抱えており、明治以後も変わらなかったとしているが、その後はどうなのかといった、本書の射程から外れるところが気になってしまうのは致し方ない。あと引っかかったのが帝劇での女優による歌舞伎上演を軽く見すぎているのではないかという点である。
 著者は今後の研究についても「課題は山積している」として、九代目市川團十郎の興行手腕、また観客動員の手法、さらにこの時代以後の小林一三東宝の登場などをあげている。ところで帯に「興行という『実体なきもの』の営為」とあるが、著者もこれと似たことを書いて、「非合理」という言葉を使っている。かつて、松竹と東宝と双方の入社試験に受かった人が、人に相談したら、東宝には鉄道があるから実業で、虚業である松竹よりいいんじゃないかと言われたという話がある。だがそれは資本の背景の話で、興行そのものが「実体がない」とか、非合理だとかは言えないのではないか、と私は思った。
 著者の研究手法からはずれるが、俳優の給料と「奥役」の関係とか、松竹が獲得した客席がガラガラにならない手法とか、私の関心について言っておくが、そういう意味で興行研究も盛んになってくれたらいい、ただそれも、「俗」な関心から描かれる、そういうことも必要だろう、と感じたのであった。