菊池寛と軍人

中尾倍紀知(ますきち、1884年1月20日-1934年12月27日)
愛媛県南宇和郡生まれ。宇和島中学校卒、第一高等学校卒、1912年東京帝国大学文学部国文科卒。1916年講談社に入る。『雄弁』を担当。1923年病気のため退社。号・未承。筆名・番茶楽斎。

 『或る編集長への手紙 雑誌『雄弁』編集長中尾倍紀知の生涯』土光千恵子, 栗林秀雄 共編( [横浜] : [土光千恵子], 製作: 講談社出版サービスセンター1990)は、娘の土光と研究者の栗林が編纂した、中尾宛の手紙と伝記である。
 この中に、菊池寛から中尾宛の手紙がある。持参便で、4月26日の日付があり、持参した軍人の書いた「死骸の前にて」という小説を掲載してくれないかという依頼である。菊池は、紹介文を書いてもいいし、七月八月号に自分が何か書いてもいいと書き添えている。
 解題では、こういう題のものは『雄弁』に載っていない、また菊池の住所が小石川なので、大正七年から十一年の間だろうとしているが、これは多分大正八年である。というのは、その年七月の『中央公論』に、菊池は「小説『灰色の檻』」を載せており、それがこの軍人のことを書いているからである。これについては前に書いたが、持参した軍人は地方の連隊にいる中尉で、どうも小説掲載はカネ目当てらしいと思うというもの。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962454
 ここで読める。
 前に書いた文章から抜き出すと、
 ところが、それから三年ほどたった大正十一年(一九二二)三月の『新小説』に菊池は、その後日譚とも言うべき「悪因縁」を載せている。ここでは、啓吉が「小説『灰色の檻』」を発表して、あの中の啓吉は冷淡だ、と批評を受けたといった話から始まる。それどころか、その小説を発表したのは七月だったが、秋になって、杉村から、あの小説がもとで軍隊を辞めることになったという報せがあって啓吉は愕然とする。啓吉は、軍隊のある場所も東北から北陸に変え、杉村が訪ねてきたのも春から夏に変えたのに、と思っていると、杉村が来訪して、さして啓吉を恨む様子もなく、噂になったので自分から辞めたと言い、「高田共同官舎」と書いてあり、場所は変えてあっても、「共同官舎」というのは軍隊では××にしかない、それで分かってしまったと言う。
 そこで啓吉は、もともと文学に志望があったという杉村に、新聞や出版関係の仕事を斡旋して、採用はされるのだが、なぜかどこでもしばらくたつと原因不明で解雇されてしまう。久しく啓吉は杉村に会わないが、またどこかから現れるように思い、「啓吉も自分の不注意と軽率から、不当に傷けた人として、生涯この人の存在から、その浮沈から、多少とも心の苛責を受けつゞけずにはいられないだろう」と終っている。こちらはその後出た『菊池寛全集』(春陽堂、一九二二)に入っている。二篇とも『菊池寛文学全集』第三巻(文藝春秋新社、一九六〇)に入っていて、解説の平野謙は、この二篇を取り上げて、菊池のモデル問題についての考え方を現していて興味深いと、あたかも実際に起きたことのように書いている。
 しかし、これは事実なのだろうか。だいたい、こんなことが本当にあったなら、杉村なる人物の痕跡があるはずだが、全然ない。またこんなことがあったなら、軍隊のほうでも問題にするだろう。しかし実際には、「小説『灰色の檻』」は、大正十一年刊の短編集『中傷者』にちゃんと入っているのだ。
 さらに、初読の時にも、「共同官舎」なんて出てきたかなと思ったのだが、実はこれは、『中央公論』初出には「高田市外陸軍合同官舎乙の四号中尉杉村藤三」とあったのを、『冷眼』に入れる際に「××市陸軍〇〇〇〇〇隊中尉杉村藤三」に変えてあり、以後はずっとこの版なのである。これでつながりは分かるが、仮に「杉村」から、軍隊を辞めたという報せが来たとしても、実際には高田(越後高田)ではないのだし、「杉村」は既に軍隊を辞めているのだから、消しても意味がないようなものだ。
 ではこれが虚構だったらどうか。それだと、高田の師団から苦情が出るか何かしたために単行本では伏字にした、ということがありうる。もっとも「悪因縁」のほうには「高田」が出てくるが、これは否定するためだ。だが「共同官舎」は実際には「合同官舎」だったわけだが、「悪因縁」のほうに出てしまっている。もしこれが事実なら、その東北にあるという、青森か盛岡か仙台か、いずれかの師団か旅団に唯一の「合同官舎」があるわけだ。
 だが、国立公文書館アジア歴史史料センターで閲覧できる軍隊関係の文書を見ると、「合同官舎」が一か所にしかないとは思えない。官舎の区分には、
 特別官舎 将官
 合同官舎 中少尉及同相当官にして家族と同居せざるもの
 一等 大中佐及同相当官並同等軍属
 二等 甲 大隊長 聯隊区司令官 憲兵隊長
 二等 乙 少佐及同相当官並同等軍属
 三等 大尉及同相当官並同等軍属
 四等 中少尉及同相当官並同等軍属
 五等 准士官及び各兵各部下士並同等軍属
 六等 各兵各部兵卒

 となっており、明治三十四年十二月二十三日陸軍達77号「陸軍官舎取扱規則」には、「合同官舎の不足する場合にありては独立の官舎を応用し合同居住せしむることを得」とあって、大正九年八月二十六日陸軍達82号には「陸軍官舎貸渡規則」の中に、「官舎取扱規則」を廃止し、合同官舎の名称を廃止するとある。その頃、合同官舎はおおむね「将校集会所」という名称で使われるようになっていたようだ。となると、既に大正八年には、多くの師団・旅団などで、合同官舎の名称を廃しており、東北のどこかの軍団所在地ののみ残っていたということは、ありそうなのである。
 つまりこの小説二編は、やはり実話だったということになるが、今のところこれについての研究論文は発見できていない。この「杉村藤三」に当たる人物は誰なのか。あちこちの出版社や新聞社へ職を斡旋したという割には、痕跡が見当たらないのだが、「悪因縁」などを発表されて、「杉村」は怒らなかったのか。どうも謎めいた作品で、いずれ詳しいことが分かることを期待したい。

 と書いたのだが、この手紙が出て来た(というか発見した)ことで、やはり事実だったということになったのである。